正体

第18話 鹿野荘監視プロジェクト、開始!


 翌朝から、鹿野荘監視プロジェクトは始動した。いつまでも燃えかすとなった物件が人目に晒されているのは、家主にとっても近隣住民にとっても嫌なものだ。保険会社の損害調査が済み次第解体工事に入るので、急がねばならない。

 久我に話した通り、今朝からチハルは通勤に自転車を使うことにした。自宅から会社までは徒歩十分ほどの距離だが、鹿野荘経由で出社すると二十分以上かかってしまう。その点、自転車なら楽だ。もしもAに遭遇しても、これなら軽く追いかけられるだろう。

 さやさやと、春の風がカールした髪を撫でていく。

 桜はもうだいぶ緑の葉が出ていたが、時折吹く風の中には白桃色の花びらが舞っている。幻想的で美しい風景だが、チハルの心は灰色の幕が下りたままだ。

 久我と別れた昨日の夕方、チハルの家に警察がやってきた。もちろん、火災当日のチハルの行動を家族に確認するためである。娘が何かやったのかと、母親は恐れおののいた。


「娘さんに放火の疑いが掛かっているというわけではありません」


 警察官は言ったが、チハル本人はその言葉を信じていない。きっと警察もあの消防隊員と同じように考えているのだろう。なんだか無性に悲しくなって、久我にメッセージを送った。「気にするな」と返事が返ってきたが、チハルの気は晴れなかった。

 現場検証の場で、一瞬でも疑いをかけられたことはショックだった。何より久我がかわいそうだ。

 あのカビ臭い部屋に彼が一週間寝泊まりしたのは完全なボランティアだった。自ら進んでやったこととはいえ、Aにバレないようにするため、彼は何かと不自由な思いをしていた。その上火事に巻き込まれたのに、放火の容疑まで掛けられてしまうとはなんと不運なことか。

 だから、チハルは腹を立てている。ぐぬぬ、を通り越して、グギギ、のあたりまで来ている。もう一度消防や警察に呼ばれるようなことがあったら、たぶん、ギリイィ! に進化するだろう。

 元はと言えば、鹿野荘に住みついたAが悪い。火をつけた犯人もたぶんA。こうなったら、久我と自分の身の潔白を証明するためにも、奴をとっ捕まえて「自分がやりました」と白状させたいところだ。


 家を出てから五分程度で鹿野荘に着いた。早速任務に取り掛かる。もちろん、アパートの前に停車してぐるりと見回すなんて馬鹿な真似はしない。遠くからさりげなく見るだけだ。

 スピードを落として、西側の駐車場側から近づいてみた。すぐ脇の道路じゃなく、水路を隔てた側から。何気ないふりをして横目でちらちらと確認してみるが。

 Aらしき姿はない。あのハチワレの猫もいない。


「だめか。残念……」


 それはそうだろう。いきなり初っ端から会えるはずもない。しかも、通勤時間帯じゃ人目が多いから避けている可能性もある。

 明日は二十分早くしてみよう。それでだめならさらに十分。帰り道は少しその場に張り付いてみてもいいかもしれない。夜のほうが目立たない分、向こうも油断しているはずだ。

 ゆっくりと去ろうとした瞬間、視界の端に何かを捉えた。猫缶だ。チハルは思わず自転車を停めた。

 猫缶は駐車場の隅っこ、鹿野荘の脇にあった。砂利敷きなので紛れていて危うく素通りするところだった。蓋が開いているのか、中身が入っているのかは、ここからは確認できない。近づいてパッケージを見たいという欲求と闘ってみたが。

 だめだ。近くにAが潜んでいるかもしれない。姿を見られたら今後が厄介だ。ここはじっと我慢の子、夜になったらもう一度来てみよう。



 七福不動産に着くと、黒磯がバケツで店頭に水を撒いていた。


「社長、おはようございます!」


 チハルは自転車から飛び降りて声を掛けた。黒磯は手を止めて振り返ったが、チハルが自転車でやってきたのを見るとちょっと驚いたような顔をした。


「おはよう。どうしたの? 自転車なんて珍しいね」

「だいぶあったかくなりましたからね。風が気持ちいいし、帰りに買い物もできますし」

「へえ。とかなんとか言っちゃって、本当は鹿野荘が気になってるんじゃないの? だめだよ、いたずら心起こしちゃ」

「やだ、そんなこと考えてませんよ。もうあの件は終わったんですから」


 終わった、のところに語気を強めて言った。


「ふうん」と黒磯は白々しい声を上げた。「ならいいんだけどね。しかし久我君も付き合いがいいねえ。いくら今月稼いでると言っても、俺は隣の所長に申し訳ないよ。あ、そうそう。今東都病院から電話があったよ」

「えっ」

「鹿野荘の山崎さん、一般病棟に移ったってさ」


 チハルの顔に緊張と喜びを合わせた笑みが広がった。


「本当ですか!? 早速あとで行ってみます!」



 チハルと久我は、鹿野荘二階三号室の住人、山崎が入院する病院へと向かっていた。

 山崎が救急車で運ばれたのが十日前。火事が起きてから三日が過ぎていたが、まだ自分の部屋が燃えたことを知らずにいる。ずっとICUにいたため、話すことができなかったのだ。彼が一般病棟へ移ったとの知らせを受けて、折り返し午後に面会に行く旨伝えてほしいと連絡していた。


「山崎さん、もしかしてAさんのことを何か知ってないですかね」


 チハルは運転席にいる久我に話し掛けた。

 彼は昨日チハルと別れたあと、運転免許試験場に行っていたらしい。どうやら無事に再交付をしてもらえたようだ。


「さあどうだろう。……チハルちゃん、なんか嬉しそうだね」

「だって、ワクワクしません? 山崎さんがAを見掛けてたら、一気に事件解決かもしれませんよ」

「そううまくいくかなあ」


 テンション低く呟く久我の顔を、チハルは覗き込んだ。


「もう、久我さんビビり過ぎですよ。……あー、それで車がピカピカなんですか?」

「へえ、よく気付いたね。謝罪に行くときと買付けを貰いにいくときは洗車をする――これ、俺のモットーだから」

「モットー、というより願掛け? まあ、怒られるかもしれないけど気にすることはありませんよ。私たちには罪はないですし」


 はは、と久我は軽快に笑った。


「チハルちゃんは強いなあ。そうだよな。俺たちは悪くない」

「そうですよ。それに、もっと広くて新しいアパートの空き部屋を、今までと同じ家賃で貸してくれるって鹿野さんも言ってますし。今度のはバス・トイレ別でエアコン付ですよ。給湯もあるし南向きの部屋なんです!」

「へえ。鹿野さん太っ腹だなあ。……あれ? もしかして、チハルちゃん惚れちゃった?」

「まさか。だって、その恩恵に預かるの私じゃないですもん」

「ちゃっかりしてる」


 久我は楽しそうにげらげらと笑った。


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