第10話 恋の炎と
〈久我さん、まだ起きてますか? もしまだ寝てなかったら明日の朝ごはんを届けたいんですけど〉
チハルからのメッセージだ。最後にかわいらしいウサギのイラストが送られてきた。
正直なところ、朝食はコンビニで買ったものを会社で食べていたが、チハルの気持ちが嬉しかった。こんなカビ臭くてジメジメしたところまでわざわざ来てくれるなんて、天使じゃないだろうか。しかし、今はまずい。帰ってきたAと鉢合わせになったら彼女の身が危ない。
〔ちょっと待って。今どこ?〕
〈もう鹿野荘のすぐ近くまで来てます! 離れたところに自転車停めて行きますので鍵開けておいてくださいね♥〉
思いがけず贈られたハートマークに、久我は一瞬鼻の下を伸ばしかけたが。
……ああ、何やってんだよ。
頭を抱えたが、もう来てしまったものは仕方がない。念のため忍び足で玄関まで行ってドアチェーンを静かに外した。音がするとまずいので鍵は掛けないことにしているのだ。
やきもきしながら待つこと二分。音もなくやってきたチハルがドアを開け、中に入ってきた。彼女を招き入れると、久我は再び慎重にドアチェーンを掛けた。その場にしゃがみ込んでしばらく様子を窺うが、廊下も階段もひっそりと静まったままだ。Aと鉢合わせなくて本当によかった。チハルに気付かれないよう、久我はそっと息を吐いた。
階段にぶら下がった裸電球のお陰で、部屋の中の様子は僅かに見てとれた。チハルはもこもこした黒い猫の着ぐるみを着ていて、目が慣れないのか玄関近くに立ち尽くしている。ちゃんとマスクもしてきたようだ。唐草模様の風呂敷包みを手にしているが、それが彼女が言っていた『朝ごはん』だろうか。
寝袋の上まで手を引いていって、ふたりで腰を下ろした。荷物を置くとすぐにチハルは身体をすり寄せてきた。
「おにぎりと、玉子焼きと、炒め物が入ってます」
耳元で囁かれて、久我はびくっとなった。二の腕に柔らかいバストが当たっている。耳に唇を近づけすぎだ。わざとやっているのか、それとも無意識なのか。後者だとしたら、男を知らなすぎる。
久我はチハルがしたのと同じように、しかし強い下心を持って、彼女の耳にマスク越しに唇を押し付けた。
「ありがとう。見てもいい?」
こく、とチハルが頷く。久我は唐草模様の風呂敷を広げてにんまりと微笑んだ。ラップに包まれた海苔の付いたおにぎりが三個。ひとつは炊き込みご飯のようで、きれいな三角形に握られている。その他に、厚焼き玉子がふた切れと、蓋つきの容器に入ったゴマ油の香のする炒め物と。割りばしの他に使い捨てのおしぼりが入っているあたりは、さすが女性らしい気遣いだ。
「君が全部作ったの?」
久我が尋ねると、チハルは恥ずかしそうに微笑んだ。ありがとう、と囁いて肩を抱き寄せる。すると、チハルが身を硬くするのが伝わってきた。こんなところにのこのことやってくるくらいだから警戒心ゼロかと思いきや、そういうわけでもないらしい。
久我が初めてチハルに会ったのは、彼女が七福不動産にやってきた五月のことだった。久我が今の営業所に異動してきたのがその年の四月。来客があったら真っ先に出ていくのが、当時一番下っ端だった久我の役目だった。
入社の挨拶にやってきたチハルは若さと経験のなさを隠そうともせず、「よろしくお願いします」と、真っ赤になって言った。紺色のリクルートスーツに、肩下で緩く内巻きにカールした栗色の髪。正直な話、ひと目見て「かわいい」と思ってしまった。久我の会社は男性営業マンばかりだったし、事務の女性も子持ちのパート従業員だ。
それ以来、久我はいろんなところで彼女を見掛けた。お客を案内していたり、物件に空室募集ののぼりを取りつけていたり。違法駐車している車に張り紙をしていたこともある。やたらとよく会うな、と思っていたのは、なんのことはない、惹かれていたから目についたのだ。
チハルはいつでも溌剌としていて、とにかく明るかった。ちょっとやそっとじゃへこたれない芯の強さも持っている。かと思えば、時々久我が考え付かないような女らしい気遣いを見せることもあった。少し無鉄砲なところがあるが、「お前は慎重すぎる」と上司に言われている久我にはそこがまた堪らない。こんなことを言ったら笑われるかもしれないが、今のように契約がどんどん取れるようになったのは、彼女を真似てお客の懐にぐいぐい入っていく営業を心掛けたからだ。
今じゃ仕事の時以外は大抵彼女のことを考えていた。この一週間、陰鬱な部屋でひとり眠る夜は特にチハルと過ごす妄想が捗った。
久我はチハルの身体を両手でキュッと抱きしめた。あたたかい。もふもふした着ぐるみは手触りがよく、まるでぬいぐるみを抱きしめているみたいだ。それにチハルはとてもいい匂いがした。シャンプーの香りだけでなく、彼女自身が発する女の匂いだ。
久我はもう我慢がならなかった。仕事の場に恋愛を持ち込むのはどうかと思うが、男の身体に一度着いた火はそうそう消せない。
彼はチハルの髪を撫でながら耳元に口を寄せた。あの続きをやるなら今しかない。さあ、勇気を振り絞れ。
「チハルちゃん」囁いて彼女の顔を見た。「……キスしてもいい?」
「……うん」
確約を貰った途端、ぐん、と身体じゅうの血流が増した。これは勝手な妄想だが、キスだけじゃなくて、もしかすると、もしかするかもしれない。俄然鼻息が荒くなる。幸い上の住人は今夜は留守のようだ。暗い密室、このアパートにはふたりきり。これ以上おあつらえ向きのシチュエーションがあるだろうか。
久我は唾を飲み込んでチハルのマスクを下ろした。闇のなかでも艶やかに誘うサクランボのような唇がぷるぷると震えている。チハルは睫毛を伏せた。高鳴る胸を抑えつつ、久我は自分のマスクを引き下ろした。
が。
その時、チハルが突然バチッと目を開けた。部屋のあちこちに目をやり、すんすん、と鼻を鳴らす。
「なんか……匂いませんか?」
「……え?」
そう言われて、久我は思い切り鼻から息を吸い込んでみた。この部屋にいる時は無意識に呼吸を浅くしてしまうので、久々に胸いっぱいに空気を吸った気がする。が、思わずむせそうになった。嗅ぎ慣れた酷い悪臭のなかに何かがいぶされるような匂いが漂っている。
久我は急いで立ち上がった。チハルの手を引っ掴んで、前のめりになりながら玄関まで走った。
「どうしたんですか?」
「しっ」
耳を澄ませば、微かにパチパチと木が爆ぜる音がする。それと、すりガラスの向こうに揺らめく仄かな暖色系の光――。
久我は急いでドアチェーンを外した。
「大変だ……逃げるぞ!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます