第11話 劫火

 廊下に飛び出したふたりを、瞬時にむわっとした熱気が包み込んだ。

 視界に飛び込む強い光。強烈な焦げた匂い。見上げれば、二階の一番道路側、七号室の前に真っ赤な炎が上がっている。ごうごうと燃え盛る炎はすでに壁まで立ち上がり、天井に届こうとしていた。

 チハルは短い悲鳴を上げて足を止めた。


「どうしよう、早く消さないと!」


 久我の腕を引っ張ったが、逆にその手を強く握られた。


「だめだ、そこまでの時間はない。早く外へ出るんだ!」


 久我とチハルは手を取り合って走り出した。空気が熱い。生きものみたいにうごめく炎は、ふたりを飲み込もうと赤い舌を伸ばしてくる。

 つんのめりそうな勢いで道路に飛び出した瞬間、どん! と小規模の爆発音が後ろで響いた。


「きゃあっ」

「チハルちゃん!」


 驚いたチハルは転んで両手を着いた。それを久我が抱き起こし、ふたりはよろめきながらアパートから離れた。そして振り返った。


「久我さん、アパートが……!」

「ああ。……よかった、間に合って」


 爆発によって吹き飛んだ外壁は、暗闇に向かって獰猛なまでの炎を吐き出していた。片手でチハルの身体を支えながら、久我は一一九番にコールした。



 静かな夜が一変した。

 ふたりで近所じゅうを駆けずりまわって、一軒一軒ドアを叩いては住人を避難させる。赤ん坊は泣き喚き、酒に酔った初老の男性は「お前らが火をつけたのか」と怒って詰め寄った。現場はパニックだ。ふたりが思いのほか冷静でいられたのは、アパートの中に逃げ遅れた人がいないと分かっていたからかもしれない。

 消防隊が駆けつける頃には、炎はアパートの二階部分をすっぽりと覆っていた。黒い煙がもうもうと夜空に立ちのぼり、オレンジ色の火の粉が次々と舞い上がる。消防車に遅れること数分、やってきた警察によって規制線が敷かれ、集まった野次馬は黄色いテープの外へと追いやられた。

 慌ただしく消火準備が行われるなか、駐車場の隅では久我とチハルが第一通報者として質問を受けていた。銀色の防火服に身を包んだ消防隊員は、名前や住所といった個人情報を尋ねてきた。続いて出火時の状況、自分たちはこのアパートを管理している不動産会社の者だと伝えたが、ふたりの話を聞くにつれその顔付きは徐々に険しくなっていった。


「ということは、あなた方はこのアパートの住人ではないわけですね?」


 隊員はチハルと久我の格好を上から下までじろじろと見た。はい、と久我が答える。


「では、このアパートの部屋で一体何をしてらしたんですか?」

「えーっと……それはですね」


 チハルと久我は罰が悪そうに顔を見合わせた。二階のAを見張っていたのはほぼ仕事であると断言できるが、さっきの久我は完全にチハルを落とすつもりでいたし、実際、ふたりの唇は触れ合う寸前だった。隊員は放火犯を疑うような厳しい目で見ている。久我は職員室に呼び出された子供のように、なんと言えば穏便に済ませられるだろうと無意識のうちに考えていた。

 消防隊員はさあどうなんだ、というように目を三角にして詰め寄った。


「いくら管理している不動産会社だと言っても、こんな時間にそんな格好で空き部屋に忍び込んでいるのはおかしいでしょう」


 チハルは大きく息を吸い込んだ。


「忍び込んでいるだなんて……! ちょっと待ってください、違うんです。私たち、二階の六号室に人が勝手に住みついているので調べてほしいと家主さんに頼まれたんです」

「彼女の言う通りです。その人が現れるのを真下の部屋で待ち構えていたんですが、匂いに気付して飛び出した時にはもう燃えていました」


 久我が加勢するが、ほう、と言いながらも、消防隊員はじっとりとした目つきで見てくる。そうこうするうちに黒磯がやってきて、ふたりがここにいた理由について消防隊員に補足した。チハルの言い分とまったく一緒だったため、消防隊員は渋々分かってくれた。ただし、あまり関心はしない様子だ。それは黒磯も同じようで、消防隊員がいったん姿を消すと久我とチハルとを交互に睨みつけてきた。


「まったく……いちゃいちゃするなら時と場所を選んでしなさいよ」

「ちょっ、違います……! そんなんじゃありませんてば」


 チハルは反論したが、完全にそのつもりでいた久我には何も言えなかった。しかも、ふたりともスウェットに着ぐるみ姿という、大変くつろいだ格好だ。きっともう寝ていただろうに、わざわざスラックスとジャンパーに着替えてきた黒磯に申し訳ない気がする。


「ところで、鹿野さんに連絡は取れた?」


 黒磯に尋ねられて久我は力なく首を横に振った。


「それが、悪いことに今夜は出掛けているようなんです」


 は? と黒磯は目を丸くした。鹿野がケータイを持っていないことを伝えると、今どき信じられない、という顔をした。久我は念のためもう一度鹿野のマンションに電話をしてみたが、やはり不在のようだ。

 ごうごうと燃え盛る炎の中、二階はもう骨組みだけになっているように見えた。こうなると近隣への延焼が気にかかってくる。今や西側の駐車場からも、建物東側からも放水を行っていたが、火の勢いが強すぎてまったく収まる気配がない。

 ただでさえ狭い道はいくつもの赤色灯と野次馬で埋め尽くされていた。時々カメラのストロボが光る。放火犯は現場に戻って自分のやったことの成果を確認することがあるため、集まった野次馬を警察が撮影しているのだ。その中には当然、久我とチハルの姿も含まれていた。疑われても仕方がない。というより、今の状況では容疑者の筆頭だろう。


「……まさか、狙われた、ってことはないよな?」


 黒磯は不気味なまでに低い声を出した。ええっ、とチハルと久我が同時に声を上げた。


「それは、私たちが、ということですか?」

「うん、君たちか、あるいは鹿野さんに恨みを持つ者か」


 ふたりは顔を見合わせた。


「チハルちゃん、誰かに恨まれるような覚えある?」

「まさか。久我さんは?」

「あるわけないだろう? ……たぶん」


 久我はチハルの顔を見詰めたまま押し黙った。自分たちを意図的に狙ったのだとしたら、犯人は二階六号室の住人Aである可能性が高い。三号室の山崎は入院中だし、Aが今日に限って帰らなかったのも怪しい。鹿野さんついては、果たして恨まれるほどの人付き合いがあるかということが疑問だ。


「でも、俺たちを狙ったのなら二階じゃなく、直接一階に火をつけるんじゃないでしょうか」


 久我の言葉にチハルが深く頷く。黒磯は腕組みをして指先で顎を撫でた。


「まあ、殺そうとしたのならそうだろうな。でも、殺すまでいかなくても、脅かそうとした、ということも考えられる」


 うーん、と久我は唸って神妙な顔をした。


「このアパートに近づくな、ってことなのかな」

「えっ……じゃあ、あの二階の六号室の人が火をつけた犯人ということですか?」

「いや、まだそうと決まったわけじゃないけどさ。でも、部屋にいなかったところを見ると、可能性はゼロじゃない。君が俺の部屋に入ってきたタイミングを見計らってこっそりと上に上がって火をつけたか、あるいは、時限発火装置みたいなものを使ったか……」


 嫌な沈黙が流れ、三人はそれぞれが顔を見合わせた。黒磯がため息を吐き、渋面を浮かべて口を開いた。


「なんにせよ、とにかく一度この件からは身を引いた方がいい。もしも君たちの身に何かあったら、俺もご両親に顔向けができないしな。以降、勝手な行動は慎んでくれよ」

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