第9話 ヒーローはひとりで苦労する

 鹿野荘の一階に久我が寝泊まりを始めて、ちょうど一週間目の夜になった。

 いつものように外で寝支度を済ませてきた久我は、寝袋に入ってファスナーを口元まで引き上げた。近所の公園にはもう桜の花が開き始めていたが、朝晩はまだだいぶ冷える。せめて誰かと一緒なら気持ちだけはあたたかかっただろうが、こんな劣悪な環境に付き合ってくれる物好きなんてこの世にいない。


「苦行だな……」


 久我は上の階に聞こえないよう、囁き声でひとりごちた。鹿野が言った通り、畳はふかふかに腐っていたし、天井はところどころ黒いしみに覆われている。天井裏をトタトタと走る音から察するに、この匂いはたぶんネズミの死骸だ。変な病気にかからないよう、この部屋にいるあいだはマスクが手放せない。

 久我は会社から地下鉄で二十分のところにマンションを借りていた。しかし、この一週間、着替えを取りに帰る以外は帰っていない。仕事が終われば外で食事をし、近所の銭湯で風呂と歯磨きを済ませる。そして最後にコンビニで雑誌を立ち読みして、トイレに寄って鹿野荘に戻って寝るのだ。

 部屋で電気が使えればこんなに苦労するわけはない。少しの明かりが洩れるのもまずいので、スマホすら寝袋の中でこそこそと使う。何をそんなに必死になっているのかと自分でも思うが、やりかけたことを途中で投げ出すのは苦手だ。それに、この件が片付いたらチハルがデートしてくれると言っている。


 目を閉じてもすぐには寝付けなくて、久我はスマホにここ最近の二階三号室の動きをメモし始めた。

 鍵を預かったその日と、その次の日に訪問してみたが、何度呼んでも、ドアを叩いても返事はなかった。思い切って中を確認しようとしたが、どういうわけか鍵はすでに替えられていた。そのことは帳簿には書かれていない。ということは、前の住人が出ていったあと、どこかの時点で誰か――あるいは、住みついている誰か――が勝手に鍵を交換したということになる。

 そんなわけで、久我は予定通りくだんの部屋の下に寝泊まりを始めた。最初の二日間は二階の住人――仮にAとする――は、不在だった。ほとんど眠れなかったが、物音ひとつしなかったので自信を持ってそうだと言える。

 三日目は久我が帰ってきた夜十時にはAは在室していた。一時間ほどしたら出掛けて、三十分後にまた戻ってきた。その日は朝、久我が出勤するまではずっといたように思う。

 四、五日目もほぼ同じ。六日目の昨日も久我は同じ時間に鹿野荘に来たが、Aは久我よりほんの少し遅れて戻ってきた。あとちょっとでニアミスするところだった。万が一出くわしたときのために言い訳は用意してあるが、できれば最後まで気付かれたくはないところだ。

 これまでのパターンからすると、Aは夜十時くらいにはいて、十一時くらいに出掛け、三十分ほど外出してまた戻ってくるという生活を繰り返している。その後、久我が出勤する時間までは在室していているが、昼間はどうしているのか分からない。今夜はまだ帰ってきていない。ということは、もしかして今外に出ればAに会えるんじゃないだろうか……? 

 しばらく逡巡したあと、久我はそろそろと寝袋のファスナーを下ろした。その途端、スウェットのポケットにしまったスマホが震えた。

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