第7話 占有者の影
ふたりは小走りに救急車のところへ向かった。少し遅れて赤いポンプ車までがやってきて、一体何事かと思う。救急車のハッチ側に回ると、水色の感染防止服を着た隊員がストレッチャーを引っ張り出すところだった。
「どうしたんですか?」
チハルの声に隊員が顔を上げた。マスクの上に覗く目元は皺が多く、だいぶ年配のようだ。
「あなたたちは?」
「このアパートを管理している不動産会社です」
フライングですが――とチハルは心のなかで付け加える。しかし、関係している物件に事件が起これば黙ってはいられないのが不動産屋だ。
その時、先に二階に上がっていった隊員が上から声を掛けてきた。他に担架を持っていった隊員もいるはずだが、なんだかバタバタしている。彼らの会話を拾い聞きするに、通報してきたのはやっぱり三号室の山崎さんらしく、部屋には鍵が掛かっていて外からの呼びかけに応じないということだ。
年配の救急隊員がチハルたちのいるところに戻ってきた。
「救急車を呼んだのは二階の一番奥の部屋なんですが、施錠されていて入れないんです。お宅の会社に鍵はありませんか?」
「ごめんなさい、鍵は大家さんしか持ってないんです」
「大家さんは近くですかね?」
「いや、ちょっと距離ありますね」
と、久我が横から口を挟む。
「では、バールでドアを壊しますので大家さんに了解を取ってもらえますか?」
ポケットからスマホを取り出して、久我は鹿野に電話をかけた。しかし、何度コールしても出ない。鹿野はひとり暮らしの上に、今どき珍しく携帯電話を持っていなかった。
「すみません、留守のようです。大家さんにはあとから報告しますのでドアを壊していただいて構いません」
うんうん、とチハルは久我の顔を見上げて頷いた。彼の言うことはもっともだ。こういう場合、建物が古かろうと新しかろうと、人命には代えられない。
二階三号室の住人が運び出される様子を、ふたりは少し離れて見守った。狭い階段を担架が下りてくる。ベルトでしっかりと括り付けられた山崎の身体は、ビヤ樽のように丸々していた。
念のため、年配の隊員に名刺を渡して救急車を見送った。再び静かな夜が戻り、ちらほらいた野次馬も、ひとり、またひとりと家の中に消えていく。
と、突然久我がチハルの腕を掴み、強引に電柱の陰に引き寄せた。背中に手を回され、ぎゅっと抱きしめられて、息が苦しくなった。
「くっ、久我さん……!」
胸の高鳴りが、それはもうすごいことになっていた。スーツの外から想像していたよりも、久我の身体は大きくて厚い。それにしても、救急車の件が片付いた途端にさっきのキスシーンの続きをやろうだなんて。そうか、これが大手不動産会社のトップセールスマンの行動力――。
久我は背中を丸めてチハルの顔の位置まで下りてきた。熱を帯びたチハルの耳元に口を寄せ、ひっそりと囁く。
「例の部屋の窓、横目で見て」
「……えっ?」
鹿野荘の西側は砂利敷きの駐車場になっていた。それをぐるりと囲むブロック塀の端と電柱との隙間から、問題の部屋が見える。さっきは完全に閉まっていた雨戸が数十センチほど開いていた。その隙間を凝視してみれば、ゆらり、とうごめく黒い影が――。
「ひっ」
チハルはびくっ、と肩を震わせた。明かりがついていないのではっきりとは見えないが、確かに部屋の中で何かが動いた。
「どう? 誰かいるだろう?」
「は、はい。黒い影みたいなものが動きました。外を見ていたんですかね」
「救急車が来たから、何が起きたのかと思ったんだろうな」
チハルの胸は痛いくらいにどっきん、どっきんと高鳴っていた。部屋の中にはやはり誰かがいた。それに、思いのほか逞しい久我の胸がとてもいい匂いで――いや、ちょっと待て。こんな時に一体何を考えているんだ!
「まだいる?」
「いえ……もう見えなくなりました。あんな真っ暗な部屋で何をしてるんでしょう」
「さあねえ。ま、こっそり忍び込んでるんだから、明かりはつけられないだろう。寝泊まりしてると考えるのが普通かな」
窓から見える姿がなくなったことを確認すると、久我はようやくチハルを解放した。残念なような、ホッとしたような不思議な気持ちだ。寄り添って歩きながら、チハルは小声で話した。
「ああやってこそこそしてるんじゃ、声を掛けたって居留守使われて終わりでしょうね。明日鹿野さんに鍵を預かって開けてみましょう。一緒に」
「そうだな。三号室の山崎さんがいなくなった今、アパートに住んでいるのは自分ひとりだと思って、気持ちも緩んでいるかもしれない」
車まであと数歩というところで、ふと、久我が足を止めた。振り返った顔は子どもみたいにきらきらと輝いている。
「ねえ、チハルちゃん。真下の階に何日か住んでみるってのはどうだろう。古いアパートだから歩けば音がするだろうし、出掛けるタイミングも分かるだろう?」
「住むって、いったい誰がですか……?」
「えっと、俺とチハルちゃんで一緒に――」
「お断りします」
ぴしゃりと即答されて、久我は肩を竦めた。
「分かったよ。俺はどうせひとり暮らしだし、こういうのは男の役目だからな」
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