第8話 デイトレーダーの作業部屋

 鹿野の住まいは門前仲町の駅近くにある分譲マンションだった。一階はコンビニエンスストア。その横にある入り口を潜ると、シックで落ち着いたデザインのエントランスホールになっている。

 そこはまるで別世界だった。モノトーンを基調としたラグジュアリーな空間。天井と床に配置された間接照明が仄かな明かりを投げかけ、床の御影石は靴で踏むのがためらわれるほどぴかぴかに磨き上げられている。それに、突き当りのガラスの向こうには落ち着いた石庭が広がっていた。


「おお、すごい……! 高級マンションじゃないですか。鹿野さん、こんなところに住んでたんだ」

「築二年だよ。即金で買ったらしい」

「即金ですか、さすが」


 ポストと宅配ボックスの前を通り過ぎ、久我は管理人室の前にあるオートロックのパネルを操作した。1205――鹿野の部屋は十二階にあるようだ。


 ――はい。

「京和地所の久我です」

 ――あっはい。すみません。ちょっとそのまま待ってもらえますか?


 すぐにインターホンが切れて、久我が振り向いた。


「鹿野さん、モニタの前から離れられないんだ。インターホンは『トレード部屋』まで配線を伸ばしてるけど、オートロックの開錠ボタンはリビングにしかないからね。いつもここでしばらく待たされる」

「なるほど」

「本当にすごいんだ。あの部屋を見たら、チハルちゃんもびっくりするよ」

「へえ、よく分からないけど楽しみです。……ところで、本当に鹿野荘の一階に住むつもりですか? 今朝うちの社長に話したら『何があっても知らないぞ』って呆れてましたよ」


 チハルは心配そうに眉根を寄せたが、久我は眼鏡の奥の瞳を輝かせるだけだ。


「さすがにいきなりはやらないさ。まずは何度か訪問してみて、捕まらなかったら鍵を開けてみようと思う。それで中がもぬけの殻だったら――」

「誰も住んでないなら鍵交換して終わり、でいいじゃないですか」


 チハルの顔を久我は瞠目した。


「君も昨日の夜見ただろう? あの部屋には絶対に誰かがいる。いきなり部屋から締めだして逆恨みでもされたら怖いから、会ってきちんと話し合いたいんだ」


 ちょうど別の住人がオートロックを開けたので、ふたりは一緒に紛れて通過した。一緒に入ってきた住人はエレベーターを三階で降りた。ふたりを乗せた箱は最上階の十二階に到着した。ドア脇のチャイムを押すと、奥から微かに返事が聞こえる。待ってください、とかなんとか。

 チハルたちが鹿野の居住スペースに入れたのは、ドアの前に到着してから三分が過ぎた頃だった。


 リビングの隣にある、窓のない部屋に鹿野はいた。六畳大の洋室に大小の事務机をカギ型に組み、社長室にあるような革張りの椅子に座っている。その目の前には大型のモニタが全部で十二台。縦に横にと設置され、押し迫るように青い光を発している。

 チハルは圧倒されていた。テレビのような大きさのモニタがあるなんて初めて知ったし、それが十二台もあるとは驚きだ。久我は『トレード部屋』と呼んでいたが、こういうものだとは実際に目にするまで想像もできなかった。


「で、鹿野さん。先ほどの件、いかがでしょうか」


 毛足の長いラグの上で、久我は膝を前に進めた。

 チハルは久我の横顔を睨みつけた。まずは何度か訪問してみて、捕まらなかったら鍵を開けてみようと思う――さっきははそう言っていたのに、いざ鹿野に会うと開口一番、一階に住む話を始めたのだ。軽く睨みつけたが、彼はチハルの視線に気づきもしない。きっと、子供が廃墟を探検するのと同じ感覚なんだろう。どうりで目がきらきらしていたはずだ。


 「いやあー、一階はもうダメなんじゃないかなあ」


 鹿野は言った。ずらりと並んだ黒い画面を凝視したまま、チハルと久我の方をちらとも見ずに。それぞれのモニタには株式の銘柄やチャートが表示されているが、目まぐるしく変わる画面は素人には何が何やらだ。光に照らされた鹿野の青白い頬は、神経質そうに時折ぴくぴくと震えた。


「ダメというのはどういう意味で、ですか?」


 久我が尋ねると、鹿野は「うーん」と唸って鼻を掻いた。


「もう何年も空き部屋になってるし、前の人が出た段階で『畳が腐ってふかふかだった』って、父が遺した帳簿に書いてありましたからねえ」

「そうですか。それでも、一応鍵をお預かりして大丈夫なようなら中を使わせていただいて構いませんか? 隙あらば、二階の六号室も開けてみるということで……」

「いいですよ。……ちょっと待ってくださいね。このあと鍵を探しますので。……あ、久我さん、申し訳ないのですが、リビングからジュースの箱を取ってきてもらっていいですか? どれでもいいので」


 はい、と言って久我はトレード部屋から消えた。しばらくすると、お中元に貰うような缶ジュースの箱を抱えて戻ってきた。箱には【粗品】と書かれたのし紙が付いている。どうぞ開けて飲んでください、と言われて包装を剥がし、彼はそれぞれに一本ずつ配った。


「これって、株主優待でいただいたんですか?」


 チハルが尋ねると、鹿野は照れくさそうに「ええ」と答えた。


「配当は年一、二回ありますが、それだけだと面白味がないでしょう。企業もいろいろと考えるものです。食品や飲食店の銘柄はファンが投資しやすいので……。最近はほぼデイトレードしかやっていませんが、長期で持つのは別の楽しみがあります」

「へえ、すごいですねえ。私も株やってみようかな……鹿野さんに教えていただいて」


 抑揚を付けて言うと、鹿野は無言でモニタを睨みつけたまま貧乏ゆすりを始めた。ちら、と久我が意味ありげな視線を寄越す。何か? とチハルが首を傾げると、冷ややかな顔をして片方の眉だけを吊り上げた。久我はジュースをあおってから口を開いた。


「しかし、これだけの装備を整えるのは大変でしょうね。もちろん知識と情報が一番のカギでしょうが、設備がないと儲からないというのでは手を出せる人も限られてしまいそうです」

「ええ、まあそうですね。デイトレの成功の秘訣は理想的なトレード環境の構築に限りますが、みんな最初からモニタをいくつも持っているわけじゃありません。ただ、監視できる銘柄が多ければそれだけチャンスを見つける確率が上がるので、少し儲けてはその都度環境を整えていくというわけで――ああ……今日はもうだめかなあ……」


 鹿野は頭の後ろで手を組んで、社長のイスにもたれかかった。足をぶらつかせて、伸びをして、「だめだー!」と言って天を仰いだ。その声にチハルはビクッ、と肩を震わせた。昨日初めて会った時にはまともに会話できないくらいに緊張していたが、こんなに大きな声を出すこともあるのか。それに、今日の鹿野は饒舌だ。自分のテリトリーでは人が変わったように生き生きと振る舞うという、マニア特有の行動かもしれない。


「すみません。集中できませんでしたよね」

「……いえいえ、久我さんのせいじゃないですよ。おふたりが来る前から損切りのタイミングを窺ってたんですが、どうにも踏ん切りがつかなかった。初歩的なミスです。あと二十分で午前の場も終了しますので、今日はもうやめにします」


 リビングで待っていてください、と付け加えて鹿野は立ち上がった。

 ソファに座って待っていると、ガチャガチャとスチール製のキーケースを揺らしながら鹿野が戻ってきた。


「取りあえず、鹿野荘の分です。他のアパートの鍵も持って行きますか?」


 チハルは立ち上がってキーケースを受け取った。


「いえ、今日は電車ですのでまたの機会にでも。鍵を見てもよろしいですか?」

「どうぞ」


 チハルはキーケースを開けて中を確認した。鹿野の父がきちんと管理していただけあって、欠けている部屋もなく、鍵番号の刻印された純正のキーがそれぞれに一本は残っている。これで二階六号室のドアも開くはずだ。緊張すると同時に、胸がドキドキしてきた。


「では、当社で責任を持ってお預かりさせていただきます。お忙しいところありがとうございました」


 チハルが腰を折ると、鹿野はちょっと待ってください、と言ってリビングの収納を開けて、箱をいくつか取り出した。


「よかったら、これ持っていってください。ひとりじゃ食べきれないので」


 はにかみながら寄越したのは、お菓子やレトルト食品が山ほど入った手提げ袋だ。ちらっと見た限り、レストランの食事券まである。


「……わあ、いいんですか!? ありがとうごさいます!」


 チハルが満面の笑みを浮かべると、鹿野は真っ赤になって照れくさそうに微笑んだ。


 帰りの電車の中で、チハルは何度も袋の中を物色した。コンビニに行けば必ず買うチョコレート。お気に入りのワッフル生地のクッキー。クリームを挟んだシリアルビスケットはダイエットのお伴だ。レトルトカレーとビーフシチューも入っていて、ランチに使えそうだ、と考える。


「随分嬉しそうだね」


 袋の中身とチハルの顔を交互に覗き込んで、久我は言った。


「お菓子を貰って喜ばない女はいませんよ。ファミレスのお食事券まで貰っちゃったし……! 株主優待ってすごいですねえ」


 ほくほくと笑顔を絶やさないチハルに、久我はちょっと呆れたような表情を見せた。


「食事なんか、付き合ってくれればいつでも俺がご馳走するのに」

「あー、なんか久我さん虫の居所が悪い。ファミレス、一緒に行きましょうよ」

「他の男のおごりで行くみたいで嫌だなあ」

「じゃあ、久我さんには夜景のきれいな展望レストランで、豪華な食事をご馳走してもらっちゃおうかなー」


 そう言って、ちら、と久我の顔を見ると、彼はすっかり機嫌を直したらしく「ホントに!?」と鼻息荒くにこにこしている。スーツのポケットからいそいそとスマホを取り出して、何かを調べ始めた。

<展望レストラン ディナー デート ホテル>

 横から覗いた検索窓に踊る文字を見て、チハルの頬がほんのりと色づいた。


「久我さん……!」

「見るなよ」


 にや、と悪い笑みを浮かべて久我はスマホの画面を隠した。


「もう。全部片付いたら、の話ですからね……!」

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