第6話 キスは事件のあとで

 こく、とチハルは静かに頷いた。念のため、西側の窓から見えないよう、東側から近づいて敷地内に入る。道路に続くコンクリート製の階段を上がり、ぽっかりと開いた建物の入り口から足を踏み入れた。

 むわっ、と古い建物特有の匂いが鼻を衝いた。カビ臭と配管の汚れと、動物の死臭とを混ぜたような匂いだ。ふたりは鼻に手をやって、思わず顔を見合わせた。


「……すごいな」

「築五十年のアパートですからね……」


 一階は真っ暗だった。廊下の暗がりには引っ越した住人が置いていったと思われるゴミが散乱しているが、このくらいのことは解体寸前のアパートにはよくあることだ。しかし、とにかく不気味だった。天井からぶら下がった裸電球は陰気だし、蜘蛛の巣は至るところにかかっているし。きっと壁に囲まれて閉鎖的なところがそう思わせるのだろう。外からやって来た獲物は二度と逃さない、そんな雰囲気がある。

 今にも抜け落ちそうな階段は一段ごとにぎしり、ぎしりと音を立てた。危なっかしくて自然忍び足になる。二階へ上がりきってしまうと少しだけホッとした。三号室のドアに取り付けられた擦りガラスには室内に灯る明かりが煌々としているし、テレビの音が外に洩れ響いている。ようやく人の気配に会えた。たったひとりでも住人がいるということは、この建物はまだ死んでいない。

 二階の廊下には一階と同じ裸電球が揺れていた。問題の六号室の中は真っ暗だ。先を行く久我が後ろを振り返った。


「もしもさ」チハルの耳に顔を寄せ、小さな声で囁いてくる。「住んでるのが幽霊だったらどうする?」

「ちょっと、変なこと言わないで下さいよ」


 久我はにやりと笑ったが、次の瞬間には突然六号室のドアを叩いた。


「こんばんはー!」


 飛び込み訪問でもするかのような大きな声だった。チハルはひっ、と息を吸い込んだ。

 ――なんでいきなりドア叩くの? 意味分かんない!

 黒い背中を一瞬睨みつけるが、すぐに気を取り直した。息を止めたまま、暗がりに耳を澄ます。

 こんな時、ホラー映画では突然ドアになたが降り降ろされたり、逆に背後から殺人鬼が迫っていたりする。しかしそんなのは人が作り出したまやかしの恐怖。となると、やはり中には誰もいないのか。いや、鉈じゃなくても包丁くらいならありえるだろう。ドアのすぐ向こうで息を殺す不気味な男。顔はぐちゃぐちゃに崩れて、血を浴びた肉切り包丁を持っていて――。

 チハルは唾を飲み込んだ。ますます神経を尖らせる。怖い。久我のスーツの裾を握った。ふたりが顔を見合わせた直後、部屋の中で何かが落ちるような音がした。そして。

 ニャァオォ、とどこかで猫が鳴いた。


「化け猫!」


 久我の声にチハルは飛び上がった。と同時に、募り募った恐怖心がついに弾けた。

 アパートの階段を急いで駆け下り、道路に飛び出した。すっかり恐慌状態だ。道路は見ずに突っ切った。全速力で車を停めたところまで戻り、助手席側のドアと民家の塀との間に逃げ込んだ。

 胸が苦しくて心臓が口から飛び出そうだった。こんなに全力で走ったのは久しぶりだ。チハルは涙目になっていたが、後ろから追い付いてきた久我は腹を抱えて笑っている。


「もう、久我さんのばかっ。なんでいきなりドア叩くんですか!」

「だって、せっかく来たんじゃないか。土産のひとつも持たずに帰るなんてつまらないだろう?」


 久我はまだ笑いを止められず、ついにはその場にしゃがみ込んでしまった。どちらかと言うと、いつもやみくもに突っ走ってしまうのはチハルのほうだ。それを止めてくれるのが慎重な性格の久我だったはずなのに。……ああ、まだドキドキが止まらない。

 チハルは腹いせに久我の肩をぐいぐいと押した。


「もう、もう! もし人が出て来たらどうするつもりですか」

「人が出て来たら? ……そうだな『僕たち今度結婚するので、この近くに新居を構えようと考えているんです。この辺りの治安についてお伺いしたくて』……って聞くかな」


 久我がへらへらしているのでチハルは唇を尖らせて睨みつけた。


「結婚するとか、余計ですからね」

「なんで。俺たちお似合いのカップルだろう?」

「もう、冗談はよしてください。はあ……でも、誰もいなくてよかったです。もしも変な人が刃物でも持って追いかけて来たらどうしようかと思っちゃった」


 チハルがため息を吐いてセダンにもたれると、久我は隣に寄りかかった。さっきまでとは打って変わって、引き締まった真剣な表情をしている。


「それはそうと、あの猫の鳴き声、中から聞こえた気がしなかった?」

「えっ。そう……でしたっけ」


 チハルはさっきの状況を思い起こしてみた。まず最初に、がたっ、という高いところから何かが落ちるような音がした。そして、ニャアオ、という猫の鳴き声。くぐもっていたが、すぐ近くで聞こえたようだった。


「言われてみればそうかも……。じゃ、勝手に住みついているのは猫だった、っていうオチですか?」

「いや、それだと鹿野さんが話してた電気メーターの説明がつかない。やっぱり中に人がいて、その人が飼っているか、それか、猫専用の抜け穴があると考えた方が無難だろうなあ」


 うーん、と唸ってふたりとも考え込んでしまった。やはりなんとかしてドアを開けてみるしかなさそうだ。住人と連絡の取れなくなった部屋を、管理している不動産屋が合鍵で中を確認するというのはよくある話だ。一番ハズレなのが変質者がいるケース。次が死体を発見するケース。もぬけの殻だったら……アタリだ。


「明日になったらもう一度来てみます。鹿野さんから鍵を預かって、昼間のうちに室内を確認して――」

「君がひとりで? だめだよ、危険すぎる。鹿野さんには俺が鍵を預かって、俺が中に入ってみるから」


 チハルはムッとした。


「どうして久我さんが? これは私の案件じゃないですか」

「君を危険な目に遭わせたくないんだって。それにほら、あまり頻繁に会ったら鹿野さんが君に惚れちゃうかもしれないだろう?」

「……は?」


 訳の分からないことを言っている割に久我の眼差しは真剣だ。今日の彼は少しおかしい。チハルは困惑するばかりだ。


「それは……どういうことですか?」

「ああいう女慣れしてない男は、君みたいにかわいい子に微笑まれるとすぐにその気になっちゃうんだよ。好きになられたら困る。俺が狙ってるからね」

「本気で狙ってる人にそんなこと言うとは思えませんけど。それに、鹿野さんには悪いけど、敵じゃないでしょう?」


 いたずらっぽく微笑んでくるチハルに、久我は表情を崩した。


「彼は家賃収入の他に投資でも儲けてるからね。あれでなかなかの強敵だよ」

「私はお金なんかに惑わされませんよ」

「じゃ、本気で狙ってもいい?」

「久我さん……」


 ふたりのあいだに、むず痒くなるような微妙な空気が流れた。防犯灯の明かりもここまでは届かず、影はすっかり闇に溶け込んでいる。久我はチハルの背中を白いセダンに押し付けた。端正な顔立ちを彩る、引き締まった唇がぐっと近づいてくる。睫毛が触れそうになって、チハルは瞼を閉じた。

 その時、遠くから徐々に近づいていた救急車が、ふたりがいる通りに入ってきた。まばゆいほどの赤色灯。耳をつんざくサイレンの音は、よりにもよって鹿野荘の前で止まった。


「ちょっ、久我さん! あれ!」


 チハルは久我の胸を強く押し戻した。不満そうに呻いて、久我はチハルから離れた。


「いいところだったのに」

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