第5話 オンボロアパート

「チハルちゃん」


 横に並んだ車の窓が開いて中から声が掛けられた。久我だ。まだ仕事をしているのか、社用車の白いセダンに乗っている。チハルは耳に髪をかけながら運転席を覗き込んだ。


「久我さん。どこに行くんですか?」

「うん。ちょっと物件を見にね」

「ええ、遅くにご苦労様です。……あー、もしかして新規物件上がったんですか?」


 にやにやしながらカマを掛けると、久我は力なく笑った。


「そうだったらいいんだけどね。残念ながら売れなくて困ってる物件だよ。地型が悪くて全然引き合いがないんで、もう一度お隣さんが買ってくれないか当たってみようかと思ってさ。乗って」


 久我は助手席に置いた資料を後部座席に放り投げた。チハルが乗り込んでシートベルトを締めると、車はゆっくりと走り出した。


「その物件って、もしかして泉町の戸建てですか?」

「そ。隣が買わなかったらいい加減どこかの業者に買い取ってもらえって所長が言うからさ。最後の頼みに夜討ちに行くってわけ。で、君は?」

「例の鹿野荘に寄ってみようと思って」


 チハルが言うと、久我は眉根を寄せて、ちらと見てきた。


「今から?」

「はい」

「こんな時間に、危ないんじゃないか?」

「外から見るだけですよ。さすがにいきなりドアを開けたりはしません」

「そう? 君は無鉄砲なところがあるからなあ。……よし、俺も一緒に行くよ」


 ちょうど交差点に差し掛かり、車は泉町とは逆の方向へと曲がった。


「えっ? だって、泉町戸建てのお隣さんにアポ取ってるんですよね?」

「いや、アポは取ってないから別に今日である必要はないよ。それに、君をひとりで危ない目に遭わせるわけにいかない」

「久我さん……」


 チハルが七福不動産に入ってすぐの頃から、隣の京和地所で働く久我はいろいろと世話を焼いてきた。難しい不動産用語も丁寧に教えてくれたし、法務局で会ったときには登記簿謄本の取り方も教えてくれた。時にはお客をその気にさせる秘密のトークだってレクチャーしてくれる。ただ、あまりに親切すぎて彼の仕事を邪魔しているような気がしてならない。横のつながりが深い業界ではあるけれど、一応は同じ商圏で働くライバルなのに。

 チハルは前を向いたまま黙ってしまった。その顔を覗き込み、久我はにっこりと笑う。


「そんな顔するなって。どうせ最初から乗り掛かった舟さ。それに、なんだかちょっと面白そうだろう?」



 都内とはいえ、古い下町のこの辺りは繁華街を少し外れると静かな住宅街になる。区画整理の波から取り残されてはいたが、世代交代は着実に進んでいて、新しい一戸建てやマンションばかりが立ち並んでいた。

 その一角に、問題のアパートはあった。古ぼけた漆喰の壁に書かれた『鹿野荘』という文字はだいぶかすれている。明らかに場違いだ。ここだけ時が止まったみたい――七福不動産に対するお客さんの印象もこんななのかな、とチハルは思った。

 久我はアパートから少し離れたところに車を停めてエンジンを切った。チハルが広げた図面を、ふたりで額を突き合わせて図面を覗き込む。

 アパートと聞いて普通思い浮かべるのは、片側に廊下があってそこにずらりとドアが並んでいるタイプのものだろう。しかし、鹿野荘はこのタイプじゃない。もともと学生向けの寮として建てられたため、全体がひとつの建物のように外壁で覆われている。入り口は北側に一か所だけ。かつては扉があったところには四角い枠だけが残されていて、廊下と階段を挟んだ両側に各部屋があった。

 今、ふたりが見ているのは西側の部屋の窓だった。くだんの部屋は二階の中部屋で六号室。しかし、残念なことに雨戸がぴっちりと閉まっているので、外からでは様子が窺えない。


「ちゃんと契約してる人が住んでるのは二階の一番奥の部屋だけって話だったよね」


 車の中から、久我がアパートを見て言った。


「そうです。三号室の山崎さん。ここからだと裏側に当たるので見えませんが」


 ふたりは車を下りてアパートの周りを遠巻きに歩いてみた。途中、会社帰りの人に何人かすれ違うが、車もほとんど通らず静かなものだ。東側に回ると、山崎さんの部屋の雨戸には隙間があるのか、わずかに明かりが洩れていた。

 取り壊し寸前のアパートは今にも朽ちて崩れそうだった。外壁はところどころ漆喰が剥がれていて、中の下地が見えている。窓は今どきアルミサッシじゃないし、ベランダ代わりの鉄柵はペンキが残っている箇所の方が少ない。


「特に変わった様子はないですね。鹿野さんの勘違いということもありますし」

「そうだな。廊下側からも見てみたいから、ちょっと二階へ上がってみようか」

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