第4話 使用貸借契約……?
「というわけで社長。まずは私、今の入居状況がどうなっているのか書類を整理してみました」
鼻息も荒く、チハルは表計算ソフトで作った資料を黒磯のデスクに置いた。
時刻はもう夜の八時を回っていた。黒磯が戻ってきたのは帰社予定時刻を大幅に過ぎた午後七時頃のことだったが、作業に没頭するあまり、連絡がないことにも気付かなかった。
黒磯は資料を手に取ってぱらぱらとめくった。アパートは全部で八棟。資料も八枚。それぞれのアパート名、所在地、築年数、構造、間取り、室数、平均賃料と、全部の部屋が満室になった時の合計賃料。それと、アパートの形そっくりに作られた枠の中には、部屋番号と、その下に現在の家賃が打ち込まれている。空室になっているところは空欄のままにした。
我ながらよくやったと思う。これだけの物件の情報を隅から隅までくまなくチェックし、ぱっと見て分かりやすい資料にまとめたのだ。しかも、管理契約はもう取れたも同然! お腹はぺこぺこだけれど、やり遂げた充実感に興奮が収まらない。
「このアパートはまだ築二年で満室です。それから、こっちのワンルームは空室がひと部屋。築年数が古いものは軒並み空室が目立っているので、募集をかける際には家賃の見直しが必要かと思います。社長、管理手数料の計算お願いしますね」
うん、うんと頷きながら、黒磯の目は資料の上を滑っていった。大まかに目を通し終えたところで、老眼鏡を外して椅子の背にもたれた。
「ご苦労さん。チハルちゃんも成長したね。うちみたいな古い店に、『ここで働かせてください!』って突然若い女の子が飛び込んできた時はどうなることかと思ったけど。もう賃貸は完全に任せてもいいくらいだな」
へへっ、とチハルは照れくさそうに笑った。皮肉屋である黒磯が手放しで褒めることは滅多にない。ここは素直に受け取ってもいいんじゃないかと思う。
「ありがとうございます。……あと、すみません。これは悪い報告なんですけど、二時半に予定していた賃貸契約はキャンセルになりました」
「あ、そう。まあ、また頑張ればいいよ。それよりも俺は、さっきの不法占有の話が気になる」
そう言って黒磯はアパートの資料に目を戻した。思いのほかあっさりしていたのはよかったが、例の物件、鹿野荘の資料を睨みつける目つきは相当渋い。
「……ですよね。勝手に電気も使われてるって話ですし、何より気味が悪いですし」
「いや、そういうことじゃなくてさ。大家さんは本当にその占有者に会ってないの?」
黒磯は両手の指を組んでデスクに肘を着いた。
「はい。そんなことは怖くてできない、ということだったので、嘘は言ってないと思います」
「そうか。ならまだよかった。下手に会っちゃって、『次の引っ越し先が決まるまでお願いします』なんてごり押しされたら、気弱な大家さんだと首を縦に振っちゃうかもしれないだろう? だけど、『タダで貸して』『いいよ』と言ってしまったら、使用貸借契約が結ばれたことになってしまう」
「使用貸借……ですか?」
聞き慣れない言葉だ。首を捻っていると、黒磯は椅子を引いて、後ろの棚から民法について書かれた本を取り出した。索引を見て、あったあった、と中ほどのページを開き、チハルの目の前に置いた。
「宅建の試験範囲でもあるからねー。しっかり勉強してねー」
「……はい。すみません」
民法第五九三条にはこう書いてある。
【使用貸借は、当事者の一方が無償で使用及び収益をした後に返還をすることを約して相手方からある物を受け取ることによって、その効力を生ずる。】
……意味がよく分からない。黙ったままでいると、黒磯はそれを補足した。
「つまり、貸主が『タダで貸すよ』と言って渡したものを借主が受け取ったら、その時点で貸し借りの契約が成立する、ということだよ。そのアパートの場合、今の段階ではただの不法占有だから、大家はいつでも出て行けと言える。だけど、そのあとの五九七条を読んでごらん」
「はい。えーと……借用物の返還の時期。借主は、契約に定められた時期に、借用物の返還をしなければならない」
「そう。使用貸借であっても、期日が決められていたらその日が到来するまでは借りていることができるんだ。だから、下手に『次の引っ越し先が見つかるまで』なんてことを承諾してしまったら、次が見つからないことを理由にいつまでも長居されることもある」
黒磯は淡々と話したが、チハルは身震いした。競売の掛かりそうな物件に侵入し、不当な立ち退き料を要求する占有屋の話を聞いたことがある。今回は競売がらみではないけれど、中に住んでいるのがヤクザだったら、何かと難癖をつけてきて法外なお金をよこせと言ってくるかもしれない。
「それってめちゃくちゃ怖いじゃないですか。鍵交換して入れなくするとかはダメなんですか?」
うーん、と黒磯は唸った。
「する大家もたまにいるみたいだけどね。きちんと法的手段によらないで中の物を出したりすると、逆に訴訟で負けたりもする。大家さんによっては強硬姿勢で行く人もいるけど、穏便に、ってことならまずは話し合いだろうなあ」
「ああ、鹿野さんなら穏便に、って言いそうです。煩わしいことは勘弁、って感じだったし」
「鍵は預かったの?」
「いえ、今日はお持ちではありませんでした」
「そうか。まあ、早いうちに預かっておいて。その占有されてる部屋の分だけでも」
そう言って黒磯はチハルに資料を戻し、鹿野が持ってきた書類の山を上から取り崩しにかかった。古い募集図面をチラ見して、次に毎月の家賃の入りを記入した大学ノートをぱらぱらとめくり、ため息を吐く。
「しかし、その大家さんもしょうがない人だな。この図面も丁寧に作ってあるし、帳簿には物件の清掃状況や入居者からのクレーム内容もこまごまと書いてある。去年亡くなったお父さんて方は、きっと愛情込めて物件を管理してきたに違いないんだ。それなのに、こんなに空室を増やすわ、不法占有はされるわ」
黒磯がデスクに置いた図面を、チハルは手に取って眺めた。間取り図を切り貼りした厚手の紙に、「南向き!」「♪日当たり良好♪」といったラベルプリンターの文字が踊っている。今どきのお年寄りはパソコン操作に明るい人も多いが、鹿野老人はそうじゃなかったんだろう。それでもこうしてせっせと図面を作り、空室が出ればコピーをして、不動産屋を回って募集をお願いしていたのかもしれない。
「……まあでも、よかったじゃないですか。きちんと業者に預ける決断をしてくれたわけだし、うちは一気に八棟も管理物件が増えるわけですし」
ほくほくと嬉しそうなチハルに、黒磯は思わず頬を緩めた。
「チハルちゃんはちゃっかりしてるな。……しかし、久我君もこんな話を持ってきてくれるなんて、ちょっと仲良すぎじゃない? ま、彼はいい奴だから、君を嫁にやるのもやぶさかでないけどね」
「そんな、父親みたいなこと言って」
「俺の娘と同い年だぞ? そりゃ、感傷的にもなるさ。久我君に何かお礼をしないといけないな。チハルちゃん、彼とデートするときにでも希望を聞いておいてね」
チハルと黒磯は七福不動産を一緒に出た。「車で送っていくよ」と黒磯は言ったが、チハルは断って反対の方向へと歩き始めた。
もともとチハルの両親は黒磯と学生時代の同級生で、店から徒歩十五分ほどの距離に自宅がある。しかし、ふと思い立って、本来真っ直ぐ行く道を右に折れた。例の不法占有されているらしいアパートは、確かここから十分ほど歩いたところだ。この時間なら、人が住んでいれば明かりが見えるはず。外からでも様子を窺おうと思った。
後ろからクラクションが鳴って、チハルは振り返った。ヘッドライトが眩しくて手をかざすと、ハザードランプが点灯するとともにスモールライトに切り変わった。
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