55話 すごく遠く

「まさか……そんな……」

団子屋が、絶望的な声を上げました。タケミ本家の蔵の中で、カイザー石調査部隊が頭を突き合わせて資料をあたっています。

「そうだな……まさか、資料の字が読めないなんてな。春子も秋太も読めるのに、団子屋だけ読めないなんてな。秋太も読めるのに」

「秋太を強調しないで下さい! 姉御さんだって、目が見えないから誤魔化せてるだけで、こんな古い字読めないでしょう!」

「そりゃ、お前、読めないよ。俺の場合は、礼一が読めるからいいんだよ。主人の担当なんざます」

「主人? 嫁だけに……読めない」

「うわー、団子屋が寒いこと言ったぞ! 嫁ってなんだ、こら」

真剣な雰囲気の中、字が読めない団子屋と姉御は、下らない盛り上がりを見せていました。


「うるさいわよっ! ふつつか嫁! 団子屋さん、下らなすぎて突っ込むのも恥ずかしいわ。黙ってて頂戴。正座してて!」

春子たぬきに怒られた二人は、部屋の隅に黙って正座しました。

 静けさが戻って来ると同時に、部屋の入り口が開いて、御タケ様が中へ入って来ます。

「どうです? 主岩の資料はありましたか?」

御タケ様は、ぐるりと一同を見渡して、忙しそうでない姉御と団子屋に声を掛けました。

「僕は、昔の字が読めなくて、待っているだけなんです」

情け無さそうに顔を伏せた団子屋を見て、御タケ様は微妙な笑顔を返すしかありませんでした。


「御タケ様、白虎は?」

姉御は、資料の話などそっちのけで、手をわしわしさせながら白虎の気配を探っています。

「もふもふしたいのですか? しかし、今は仕事で忙しくしていて。白虎も久々に姉御さんに会いたいと、残念がっていましたよ。抱っこしたいのなら、私が代わりにしてあげましょうか」

御タケ様は、ニコニコと下らないジョークを飛ばしました。

「してくれ」

姉御は、真面目に答えました。

「それじゃあ、膝においで」

御タケ様は引きませんでした。流石に礼一の父親です。笑えないジョークへの、責任感がありました。しかし、姉御も引けませんでした。お互いにノリ突っ込みをかますには、タイミングを逃したという自覚があったので、姉御は黙って御タケ様の膝に座りました。


「馬鹿でしょ、あんたら! やめなさいよ、気持ちが悪い。不愉快極まりない。触るな、エロ親父」

礼一が、かなり厳しく吐き捨てました。エロ親父呼ばわりされた御タケ様は、膝に座る姉御と顔を見合わせました。

「エロ親父はないでしょう……」

「そうだな……」

二人で礼一に非難の目を向けています。

「それ、私の父親ですよ? エロいに決まっているでしょう。親玉ですから、私より変態ですよ」

資料から目も上げずに言い放った礼一の言葉を聞いて、姉御は御タケ様の膝から素早く降りました。御タケ様は、複雑な表情をして息子を見つめています。


「さぁ、馬鹿はこれくらいにして。俺は、別の角度から調査してくるぞ」

姉御が立ち上がって、腰に手を当ててやる気満々な顔をしました。それを聞いた礼一は、顔を上げて姉御の様子を目を細めて見つめます。

「……あんた、主岩に行く気ですね?」

主人には御見通しでした。

 返事をする代わりに、にこっと笑った姉御を見て、礼一はため息を吐きました。

「有毒ガスで目をやられた場所にまた行くんですか? 冗談でしょ。駄目ですよ、絶対に。どうしても行くなら、私も連れて行きなさい」

姉御は、嫌そうな顔をしました。

「僕も連れて行って!」

団子屋がそう叫んで立ち上がると、さらに姉御の表情が渋くなります。

「危ない所だからなぁ。この間は通り過ぎただけだったけど、今回は留まる必要があるから、身軽な方がいいんだ。成果があるか、確信もないし」

 身軽な方がいいと言われて、団子屋は下唇を噛みしめました。役立たずの自分を不甲斐なく思う気持ちと、何かしたい、何か出来るはずだという強い思いがせめぎ合って、ただただ姉御を睨むしかありません。


「まぁまぁ、そう焦らないで。団子屋さんは、たぬき達と父から得た情報を、書き出してまとめて下さい。どうやら詳しくまとまった資料は無いようですから、少ない情報を抜き出すしかないようです。まとめる者がいれば、随分時間が短縮出来るはずです」

礼一がそう言って紙とボールペンを渡すと、団子屋は黙って頷きました。

 早速、春子たぬきが団子屋へ情報を伝えています。その様子を見た姉御は、出口に向かって静かに歩を進めました。

「……待ちなさい、私も行くと言っているでしょう」

礼一が一歩踏み出すと、姉御は全力でスタートダッシュを切りました。その瞬間、何かが姉御の足に跳び付きます。そのまま外へ飛び出してケサランパサランと飛び去った後姿を見送った礼一は、舌打ちしてから蔵の中へ戻りました。

「連れて行ってもらえなかったのね」

春子たぬきが、傷にワサビを塗り込みました。嫌そうな顔をして黙って座った礼一に、団子屋は同情的な表情を向けています。

「秋太は跳び付いて、付いて行ったみたいですけど」

「やりますね……行きたい素振りも見せずに、私を目くらましに使って不意を突くとは。全く、たぬきは苦手だ」

礼一は、一匹残っている春子たぬきをガン見しながら言い捨てました。春子たぬきは、資料から目を離さずに馬鹿にするように鼻を鳴らします。


 諦めた礼一が資料漁りに戻ると、御タケ様がおずおずと口を開きました。

「あの……ちょっと父として心配なんだけど、礼一はエロくて変態なのかな?」

春子たぬきと礼一は、顔を上げました。団子屋は聞かなかったことにして、正面の壁をじっと見つめています。

「ええ、そうですね」

事も無げに頷いて、顔を戻した礼一を見て、御タケ様は渋い顔をしました。

「私の見立てでは、かなりのものよ」

礼一のエロ同人を描いていた春ぽん子は、深刻そうに頷きました。

「言っときますが、春子の同人の十倍はすごいですから。私はもっと、ネチネチしてますし、我慢が出来る男です」

どうでもいい礼一の告白は、春ぽん子に衝撃を与えました。

「十倍……ばかな……」

床に手を付いた春ぽん子は、体を震わせています。

「さぁ、そんなことはどうでもいいので、情報を収集しましょう」

低い声で言い放った団子屋の気迫に押されて、三人と一匹は無事仕事に戻りました。



 順調に空を進む姉御は、足元の温もりに気が付きました。

「秋太か……」

「父ちゃのとこ、行く! 僕、知ってんだ、声がするて」

「まぁ、お前は小さくて軽いからいいか」

姉御が観念したように言うと、秋太たぬきは笑顔でしがみついた手に力を込めました。

 やがて到着した邪沼平は、うっすらとガスで煙っています。ガスの出具合と風の関係で、前回着た時とは違ったデスゾーンが広がっているようでした。

「やっぱり、ガスが掛かってるな。でも、この前より高さが無いぞ」

ケサランパサランで上空を移動していた姉御は、ずっと高度を下げました。

「主岩、半分出てる!」

嬉しそうな秋太たぬきの叫びで目を向けると、頭の部分をガスの上に出した主岩が目に飛び込んできました。

「よし! 秋太、いつでも急上昇出来るように、気を抜かずに俺にしがみ付いたままでいろよ!」

黙って頷いた秋太たぬきは、姉御の足に回した手を、ぎゅっと強めます。

 ガスに影響を与えないように、姉御は静かに岩の上へ降りました。最小限のケサランパサランが、足元と体に寄り添っています。ふらふらしない様子から、ケサランパサランも緊張しているのが伝わって来ます。


「父ちゃー、母ちゃー」

秋太たぬきの、能天気な声が響きました。

 反応が無く、再び同じように叫んだ秋太たぬきが、今度は何か聞こえたように耳をプルプル動かすと満面の笑みを浮かべました。

「姉御しゃん、父ちゃと母ちゃの声だよ! 聞こえたよー!」

「あぁ、俺にも聞こえた。秋太の父さん母さーん、この間は、助けてくれてありがとう」

姉御が足元に向かって大きな声を出すと、少し岩が振動したように感じました。

「おぉ、おぉ、この間の娘かのー。秋太が面倒かけたのー」

聞き覚えのある、野太い声が答えました。それは、有毒ガスの中でヒコナを抱えながら聞こえて来た声に間違いありませんでした。

「あぁ、あの青年も無事かえ?」

細く高い、女性の声も聞こえてきます。この声も聞き覚えがあり、秋太の母のものだと推測出来ます。

「あぁ、あいつも無事だったよ。ガスから出る方向を教えてもらえたおかげだ」

姉御が言うと、ほっとしたようなため息が響きました。


「こりゃ、秋太! ここには来てはいかんぞ! 兄ちゃや姉ちゃに、そう言われなんだか?」

「春子と冬一も元気かえ?」

両親たぬきの発した声は、完全に被りました。

「姉ちゃは元気―、兄ちゃは、石になったー」

秋太たぬきは、自分に都合が悪い父の言葉を無視しました。


「何!? 石?」

両親は、戸惑いの声を上げました。

世間話でタイムロスしそうだったところを、上手く本題に入れた勢いで、姉御が口を開きます。

「そうなんだ。時間が無いから簡単に言うぞ! カイザ……冬一の留守中に土地守が怪我をしたんだが、冬一はその怪我が家を開けた自分のせいだと悔いて、懺悔とか責任感かしらんが、庭の端の石と同化したらしい。まだ石になって一日も経っていない。俺たちは、冬一をもとのたぬきに戻すために色々調べているところだ。何か知っていたら、情報をくれないかな?」

早口で話し終えて黙って返事を待つと、ややしばらくしてから父たぬきの低いうなり声が響いてきました。

「うーむ……それはまた……なんとも……」

「あの、バカたれが!」

深刻そうな父たぬきの言葉に、母たぬきの怒鳴り声が被り気味に飛び出しました。秋太の体が跳ねて、背筋が真っ直ぐになりました。どうやら、母強しで、女親の方が頼りになりそうです。


「もとに戻す方法は?」

すかさず姉御が質問すると、やはり母親が返事をします。

「外からはどうにもならん。完全に内の世界にこもってしまうでな。声も届かぬ。この世とは地続きになってはおらん、遠くの世界」

姉御が黙って眉根を寄せると、足にしがみつく秋太たぬきの力が強まって不安そうに姉御を見上げています。

「わしらのように、外と話せるようになるまで、あの半人前じゃと百年はかかりおるぞ。話をして説得出来たとしても、その頃にはもう生身には戻れん」

さらに不安を掻き立てるような、父たぬきの声が響きます。

「……じゃあ逆に考えると、今、内側の冬一に何とかして声を届けて説得出来れば、元に戻れるってことかな?」

「そうじゃのー」

「そうじゃ、そうじゃ。何とか、御頼みいたします。あたしには、何も出来やしませぬが。親の勝手をお許しいただけるならば、何とか戻して、あたしの代わりに尻を叩いてやってくれやせぬか。バカな息子ですが、石になるには早う御座います」

のんびりした父たぬきとは逆に、母たぬきが大きな声で懇願しました。その真剣で切羽詰まった声に、姉御は大きく頷きました。

「勿論、そのつもりだ! 尻でも腹でも、盛大に蹴り上げてやります」

姉御の過激な発言を頼もしいと感じたのか、秋太たぬきの顔に笑顔が浮かびました。


「父ちゃ、母ちゃ、僕、知ってんだ! 姉御しゃんは、すごく頼りになんだ。すごい友達も、いっぱいいんだ。兄ちゃも戻るって、知ってんだ!」

秋太の弾んだ声に、両親は感嘆の声を上げました。

 気が付けば、ガスの位置が高くなっています。ケサランパサランがそわそわし出したので、姉御は少し浮き上がりました。

「じゃあ、方法っぽいのも聞けたし、ガスも上がってきたし、帰るよ!」

「父ちゃ、母ちゃ、また姉御しゃんに連れて来てもらうからねー」

秋太が、勝手なことを言いました。

「よろしゅう、お頼もうします」

上空に浮き上がる姉御を、父たぬきの野太い大声が追いかけてきました。地面に顔を向けると、閉じた姉御の目には、大きなたぬき二匹が正座して深々と頭を下げている様子が映りました。

「よっしゃー、頼まれた!」

姉御は、ガッツポーズで飛び去りました。


「あぁ、そう言えば……何か言っていたやつがいたっけな。カイザーのことだったのかな」

上空でぽつりと呟いた姉御に、秋太たぬきは不審気な顔を向けています。

「うーん、一応拾っていくか」

姉御は急降下すると、遠藤ノ滝に佇んでいた遠藤行者を捕まえました。


『誰かすごく遠くへ行くかもしれない。だいぶ先だけど』


姉御は遠藤行者のその予言を思い出したのです。朔の襲撃が無事に済んで忘れていましたが、カイザーたぬきが今いる場所は、すごく遠くと言えるでしょう。


「えっ、何、誰、怖っ! 何ですか――――――!?」

遠藤行者にとっては、急襲と問答無用の急上昇でした。

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