50話 嵐
鬼の襲撃から一週間以上経ち、団子屋はすっかり平常通りになりました。タケミの結界のおかげで、周辺地域に何も知られることも無く、土地への悪影響も無く、あまりにいつも通りなので逆に現実感がありませんでした。
「これで、礼一さんが僕のせいで、怪我をしていなければなぁ……」
夕方に縁側で呟いた団子屋に、珍しく居間で絵を描いていた春子たぬきが顔を上げました。
「礼一さんには、まだ会えてないの?」
頷いた団子屋に、春子たぬきは気の毒そうな顔をして見せました。
「仕方がないわよ。結構精神を消耗したみたいで、部屋にも薬師様と姉御さんしか入れなかったみたいよ? それに、また何かあったみたいで……姉御さんと礼一さんが怪我をしたって」
姉御と礼一の野蛮な殴り合いは、団子屋とたぬき達には伏せてありました。団子屋が微妙に関係しているケンカの内容は、お宿の面々も知らぬことです。そのせいで、人と会うことを拒絶していた礼一を見舞った団子屋は、二度程無駄足を食らわされていました。
「え? また怪我をしたの? 姉御さんまで? 色々あるんだね……それじゃあ、まだお見舞いには行き辛いなぁ」
「きっと、良くなったら連絡をくれるわよ。元気にはなったみたいだし」
襲撃以来元気のない団子屋を、春子たぬきが明るい声で励ましました。ぽつんと一人で縁側に座る団子屋は、猫背になり肩を落としています。
「カイザーは、今日もカノさんのとこ?」
春子たぬきが頷くと、団子屋は力なく、そう、と言ったきり、黙って暗い空を見上げています。
四日ほど前、カノさんが家の中で転んで右手首を骨折したらしく、それを知ったカイザーたぬきは、毎日足しげくカノさんの所へ入り浸っていました。
「趣味のお裁縫が出来なくて、暇で可哀想だからって、嬉しそうに出かけて行ったわね」
春子たぬきの話に頷いた団子屋は、再び空を見上げています。
風が強くなって来ました。
「そろそろ、台風が近くなって来たみたいだね。今夜直撃するって……春子のお宿のバイト、台風が来る前に行ったほうがいいかもよ? 道もどうなるか解らないし、危ないからそのままお宿に泊まったほうがいい」
団子屋の言葉を聞いて、春子たぬきも縁側に出て来て空を見上げています。
雲は随分と低いところに広がって流れており、灰色の層がかなり厚く積み上がっているのが解ります。
「そうね……秋太はもうお宿に行ってるし、私も行こうかしら。今日は、あんちゃんはバイトが休みだから、そろそろ帰ってくると思う。もう雨が降ってきそう」
今にも降りだしそうな空に急かされた春子たぬきは、片付けもそこそこに、宿へと出掛けて行きました。
団子屋は一人になりました。居間に上がると、ちゃぶ台の上に出しっぱなしの春子たぬきの絵が載っています。見たら目が腐ると顔を背けましたが、怖いもの見たさで目を向けると、そこには意外なものが描かれていました。縁側に座って、何か話しているようなカイザーたぬきと団子屋の姿。正に、日常という平凡な構図です。
「何だよ……春子って本当に絵が上手いんだ。こんな絵も描けるんじゃないか」
カイザーたぬきの不在で一人でいることが多かった団子屋は、余計に絵が素敵に見えて目頭が熱くなりました。エロ専門の腐れも取り扱っている同人作家の絵に、不覚にも感銘を受けた団子屋は、少し頬を赤らめました。
気を取り直してテレビを付けると、台風は直撃コースのままでした。流石に不安になった団子屋は、店やら庭やらで風に飛ばされそうな物を片づけて、母屋の雨戸を閉めました。
途中から大粒の雨が降りだして、すっかり濡れてしまったので、夕飯の準備より先に風呂に入ることにします。湯船につかって人心地付くと、玄関を叩く音が聞こえて来ました。最初は風のせいだろうと無視しましたが、次第に音が強くなり、驚いて風呂を飛び出しました。急いで服を来て玄関へ向かいます。
「ごめん、カイザー! 間違って、玄関の鍵も閉めちゃった!」
焦って戸を開けると、そこにはびしょ濡れのカイザーたぬきの姿は無く、予想もしなかった人物が立っていました。
驚いて言葉も出ない団子屋を押しのけて、背の高い男が玄関に入り込んで来ます。
「久しぶりだな……」
それは、冬に手酷い追い返し方をした大学の友人でした。政治家一族で、友人仲間のリーダー格の男です。団子屋はすっかり縁が切れたものと思い込んでいましたが、家がばれているので、こんなことがあってもおかしくはありません。
ぐっと眉根を寄せて、硬い表情をして黙った団子屋を見て、男は勝手に家に上がり込んでしまいます。とっさに声も出せなかった団子屋は、開いたままの玄関からカイザーたぬきが顔を出すのではと期待しましたが、そこには何の気配も無く、風に煽られた雨が吹き込んで来るばかりです。
玄関を閉めて居間へ行くと、男が座ってタバコを吸っていました。
「お茶。いや、ビールがいい」
団子屋の顔も見ずに、大柄に言い放った男に、団子屋はかっとなりました。
「出てけよ、帰れ!」
怒鳴られたのが意外だったのか、弾かれたように顔を上げた男は、片頬をひくひく痙攣させてから黙って立ち上がり、居間を出て行きました。勿論、怒鳴られたぐらいで帰るはずもなく、勝手に台所の冷蔵庫から出して来たであろうビールを持って戻って来ました。
どかっと腰をおろしてビールを煽った男は、立ったままの団子屋に卑屈な笑顔を向けると、ちゃぶ台を指でとんとん叩きながら口を開きます。
「……今日は、強い外人はいないみたいだな。それなのに、随分強気じゃないか」
偉そうに鼻を鳴らした男の態度に、団子屋は心底嫌悪感を抱きました。
「そうだね、強い友達は出掛けているけれど、僕一人きりだって、君に従う理由はないよ」
怒りもあらわに低い声を出す団子屋を見て、男は笑顔を引っ込めて、片頬を何度も痙攣させました。その様子は、半年以上前に会った時とはまるっきり違って見えました。
随分痩せたのか、頬はこけて、身なりも貧相に見えます。服装や頭髪の乱れは、玄関で台風に晒されたせいだけでは無いようです。
「お前のせいで、俺の人生は滅茶苦茶だ。今なら穏便に済ませてやるから、俺の親父に電話しろよ。誤解は解けたから、息子さんを家に戻してあげて下さいってな。これからは、息子さんの力になりますからってよ」
男のセリフから、大体の察しがついた団子屋は、顔をしかめて厳しい視線を飛ばしました。
「僕には関係無いだろ。僕は電話なんかしないし、一切関わりを持つ気もないよ。帰ってくれ」
冷静に冷たい口調で言い放つと、目を向いた男がちゃぶ台をバンッと叩いて身を乗り出しました。
「関係無いわけないだろうが! 全部てめーのせいなんだよ! 家を追い出されて、父さんの秘書になる予定だったのも取り消されて、くだらねぇ弱小会社に入れられてよ! 役職はあっても、安物のスーツ着た使えねぇ部下しかいねぇし! 金もねぇから、時計一つ買うにもローンだし、媚びてきてた女どもにも見下されてよ! こっちは苦労してんだよ! お前には、解んねぇだろうけどな」
勢いのままに一気にまくし立てられた話の内容に、団子屋は呆れてため息を吐きました。
まともに話をする気にもなれませんでしたが、興奮状態の男が大人しく出て行ってくれそうもないので、仕方なく口を開きます。
「大抵の人は、それを苦労とは言わないんだよ。ごく普通のことだろ。仕事を世話してもらっただけいいじゃないか。君が、自分は普通よりも価値がある人間だと思うのならば、そこで努力してお父さんに実力を示して、戻してもらえるよう頼めよ。世間知らずで自分では何も出来ないくせに、親の権威を振りかざしてた君には、今のままでも勿体ないくらいの境遇だと思うけど」
団子屋が言い放った言葉は、至極まっとうなことでしたが、賢い言葉の選択とは言えませんでした。
言い終わって男を見た団子屋は、それを痛感します。男の顔面の痙攣は酷くなり、目玉はキョロキョロと動き回り、傾いた首は細かく揺れていました。
普通の精神状態じゃ無い、刺激しすぎた、と後悔した時には、既に取り返しのつかない所まで来ていました。
泳いでいた目が、ギョロリと団子屋を捉えると同時に、男は上着のポケットからナイフを取り出していました。
「電話しろよ……父さんに電話しろよ! 電話しろよ、早く早く早く早く早く」
ナイフの刃先を向けながら、金切り声を上げる男の口角には、白い泡が付いていました。
刃物を向けられて体を緊張させた団子屋は、自分がどう動くべきか考えます。大きな動作や、刺激するような言動は避けなければなりません。ふと、カイザーたぬきの帰宅を期待しましたが、そう都合よくは行かない気がしました。
外は台風。
団子屋は、一人きりでした。
でも、と思い返します。今、一人きりだとしても、自分には助けを求められる、いや、求めなくても助けてくれる人達がいると。
本当に一人きりなのは、眼前でヒステリーを起こしている男の方なのだと思い至った時、団子屋の緊張は、さっと引いて行きました。
「……君は、君に媚びる多くの取り巻きに囲まれていたね。君に逆らう友達はいなかったし、それがまた、君を尊大な人間にした。でも、それはいつからだったっけ? 上京して、一人で昼食を取っていた僕に話しかけてくれた君は、ただ、本当に優しい感じだった。すっかり忘れてしまっていたけれど……二人で過ごしていた間は、僕は君が嫌いじゃなかったし、仲良くやれてたと思う。君が辛い立場になったとたんに離れて行った、取り巻きの友人達との関係とは違っていたと思うけど」
突然予想外の話題を振られた男は、何の話だ、と一瞬歯をむきましたが、何か思うところがあったのか、一点を見つめたまま黙り込みました。
男の頬の痙攣が収まったので、団子屋の心の中に、まだ話は通じるかもしれないと、少しの希望が広がりました。逃げ出しても後ろから刺される可能性がある以上、ここは腰を据えて話すしかないと腹をくくった団子屋は、どっかりと畳に腰を降ろしました。先程より、ナイフの刃先が近くに迫ります。それを見た男は、反射的にナイフを引っこめました。まだ、望みはあるようです。
「……お前は、だんだん付き合いが悪くなったろ」
正面に座った団子屋から目線をはずして、男が静かに口を開きました。
「そうだね……人が増えて、嫌になってしまったんだ。皆、人の悪口や、誰とセックスしてどんなだったかとか、そんな話題ばかりになって来て。お金の使い方も派手だったし、僕とは全然考え方が違ってたから、好きにはなれなかった。向こうもそうだよ。君も含めて、皆で僕のことを見下して笑っていただろ。
でも君は、本当は違うんじゃないの? 絵画や本に詳しくて、そういう話をしていた頃は、僕は君に会うのが楽しかった」
話しながらじっと男を見つめていた団子屋には、男の目つきの変化が見て取れました。それに力を得た団子屋は、更に話を続けます。
「君は僕に、父親の話はしなかったし、何か自慢話をするようなことも無かった。僕はそんな君が好きだったけど、君は、僕では物足りなくなったんだろ? 他の連中といるほうが楽しくなったんだ。人それぞれだから、それについては仕方がないと思う。それでも君は僕を誘ってくれるし、周りもそれに合わせて連絡をくれたから、僕もそれなりに付き合って来たつもりだけど、それが間違いだった。お互いに、すっぱりと友人関係を断ってしまった方が良かったみたいだね」
話し終わった団子屋は、小さく息を吐きました。言葉にしてみると簡単でしたが、団子屋の脳裏には、当時、気の合わない仲間と穏便に過ごすことに苦労して、気の重い毎日を過ごしていたことが思い起こされていました。
ばん、ばん、と雨戸の鳴る音が響きます。雨も強風に煽られているようで、屋根にバラバラ叩きつけられる雨音には、強弱がありました。
「俺だって……」
男の発した声は嵐の騒々しさとは対照的で、弱弱しく小さく、そのくせ何故かはっきりと団子屋の耳へと届きます。
団子屋は、聞こえていることを知らせるために、強く頷いて見せました。それに促されたのか、男が思い切ったように団子屋を真っ直ぐに見つめ、少し大きな声を出しました。
「俺だって、心底楽しんであいつらと一緒にいたわけじゃない。最初は嫌な気分だった。慣れると、楽しく感じた時もあったけど、心のどこかで、こんなの本当の友達じゃないんじゃないかって思ってて……だからお前と離れ難かったし、一緒にいて、」
男の言葉を遮って、電子音が鳴り響きました。
団子屋の携帯電話です。
慌ててズボンのポケットから携帯を出して、電話の電源を落としましたが、団子屋が男に目を戻したときにはもう、男の表情は硬く冷たい物になっていました。再び、口を開きそうにはありませんでした。
「何て?」
言葉を促してみても、反れた眼差しはもう戻っては来ません。
「……ご立派なお前には、電話をくれる質のいいお友達が沢山出来たんだろ。俺やあいつらみたいに、根性の曲がった人間とは違う、優しくて正しくて、素敵なお友達がよ」
そう言って、卑屈な笑いを浮かべた男は、再び団子屋へナイフを向けました。
団子屋が、勢い良く立ち上がりました。
「ちゃんと話が出来ると思ったのに! 今さらだけど、僕は今、もっと早く君ときちんと話をするべきだったって後悔してる。君に媚びを売って利用するような連中とは、付き合わない方がいいよって、言ってみれば良かった!」
大声で叫んだ団子屋に触発されたように、男もがばっと立ち上がりました。
「解ってたよ! 俺も、最初は楽しかったけど、ちゃんと解ってたんだ! こいつらは、俺に取り入って良い思いがしたいだけだって!」
団子屋に負けずに大声を出した男は、悔しさをぶつけるように、団子屋の胸倉へ手を延ばしました。
男の足がちゃぶ台に引っ掛かり、そのまま前のめりになると、団子屋の方へ倒れ込みました。胸ぐらを掴み損ねた男に押しやられた団子屋は、横向きに倒れ、その足に重なるように男が倒れ込んで来ます。
「つっ――――!」
それは、事故でした。
団子屋は、どこかに痛みを感じました。頭では、どこが痛むのか把握出来ていませんでしたが、手は反射的に足に延ばされました。
頭を振りながら体を起こした男が、ひっ、と喉からおかしな音を出しました。
恐怖の表情を浮かべながら、ちゃぶ台にぶつかるのも構わずに後ずさりする男を見て、団子屋は男の視線が注がれている所へ目を向けました。
「うわぁ、痛っ――――!」
団子屋の足首付近が、真っ赤に染まっています。ズボンで吸いきれない血が、畳に広がっていました。驚いて上半身を起こし、痛みで顔を歪めます。
団子屋はパニックになりました。
血を止めなければ。
痛みを和らげるには。
どうにかしないと死ぬのでは。
触ったらもっと痛いのでは。
変に手当てしたら、悪化するかも。
誰か。怖い、怖い、怖い。
一瞬のうちに、様々な思いが沸き上がり、体は動かぬまま、空間に延ばされた手だけが、ぶるぶると震えていました。
「俺じゃな、い、俺、は、違う、こんなはず、じゃ、違う!」
叫んだ男に、助けを求めるように、団子屋が手を伸ばします。
「俺、は、し、し、知らない!」
男は団子屋の手を払いのけ、上半身を思い切り突き飛ばしました。
受け身も取れぬまま、強かに頭を畳に強打した団子屋は、そのまま意識を失いました。
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