第9話 マービンの茶

 フェリーニ兄妹と邂逅した夜。

 ビルトン城への勝手知ったる道、鬱陶しい衛兵も歩哨もいない自分しか知らない道をクオラは急いでいた。最も、彼女の特殊な人体を以てして通行可能となるような道である。人間離れした跳躍でいつもの窓に飛びついて部屋に入った。

 雑多な資料と図面類が散らばる居室にマービンの姿はなかった。クオラは701から渡された銃の入った鞄を隠し、もう一つマップケースを机に置いた。中から取り出した書類を眺めて、先程のアーニャという女との会話思い出す。


「アーニャ・フェリーニ」


 クオラは落下傘降下直後から二人の匂いを嗅ぎ分けていた。アーニャは報告を受けていたのか驚くことはなくニコと微笑んだ。


「ご名答、流石だね。あっちでフルボッコになってるのは誰かわかる?」

「ニーノ・フェリーニ。陸島連合行政府危険支障事象排除案件管理部高等官三等」

「聞いたぞこの三等兵!」


 ジェフの罵倒に一つ加わる。アーニャ以外興味がないからすっかり忘れていた情報だった。「みんなほどほどにね」苦笑いするアーニャはそれだけ言うと実兄を助けることはせずクオラと話を続ける。


「役職まで覚えられるのはすごいね。これなら連合ウチでも他でもたくさん仕事があるよ」

「仕事なんていらない。マービンが安全に研究を続けられればそれでいい」

「そうだね。マービン博士の意向はどうかな?」

「・・・まだ聞けていない」

「博士は連合を嫌ってるってね。でも作戦後に事情を把握できていなきゃ面倒だから、きっと協力してくれるようにしておいてね。せめて、武器は携帯していない状態に」

「マービンはメスの一本も持ち歩いてないよ」

「ならよかった。お兄ちゃんが生きてたら後で一緒に説明するけど、これ読んでおいて。クオラさんのサインがあれば、協力者の同意があったものとして博士と一緒に二人は連合の保護下に置ける」


 小難しい文章のことはよく解らない。前の国予での生活に戻るような気もした。しかし、背後で袋叩きに遭う三等高等官はともかく、この情報部の少女は信頼に足る言葉を感じさせた。マービンがここまでクオラに仕込んだわけではないが、自然と伴って身についた野性の勘ともいうべく感性で考えていた。

 事実アーニャは、動物から懐かれやすい体質だった。


「可愛らしい耳だね」


 素直な感想を述べるアーニャは綺麗だった。マービン以外の人間から初めて伝えられる言葉はクオラを懐かせようとしていた。ボーイッシュな容姿に相反する細い指で撫でられもしてみたかった。マービンに抱く想いとはまた別な感情で、色々な人と触れてみたくなった。

 城の外にだって、オイルサーディンの缶を開けてくれる人はいるのだ。そのことをマービンに伝えたくなった。


 底の薄くなったサンダルをズルくった音にクオラの耳が立った。彼女の瞳に火が灯り頬に赤味が差した。


「あんまり遅くまで出歩いちゃいかんよ。心配するじゃないか」


 扉の隙間から覗く白髪交じりの不潔な頭、無精髭で眠そうな眼に四角い眼鏡を掛ける中年男がマービンだった。冴えない学者然としている姿は尚更、高精度な私物研究を為せる風体でもあった。

 深夜外出を咎められ誤魔化すように笑ってみせるクオラの顔は、彼にだけしか見せなかった。


「ごめん、ちょっと行きたいところがあったから」

「いくら猫のような俊敏さを備えていても、深夜女の子の一人歩きは危ないよ」


 マービンは欠けたティーカップを二つ探し出すとポットから茶を注いだ。「国予だって、特機の襲撃があれだけで終わるとは限らないんだから」何気なく呟かれた一言に、カップを受け取るクオラの手が一瞬止まった。701分隊との関りは当然何一つ話していなかった。

 これから話さなければいけない内容をどう切り出せばいいのか考えあぐねて苦い顔をする。


「うー・・・」

「なんだい、まだ口を付けてないのに。茶が不味けりゃ飲んでからそんな顔すればいいのに」

「そ、そんなことない!おいしいよ!」


 慌てて啜る熱い茶は猫舌に沁みる。マービンはべえと舌を出すクオラの頬に掌を添え困ったように笑った。


「冷まして飲めよ。研究成果もこうなっちゃ形無しだな」

「ううん、熱いのが苦手になったのも私の特徴だから」

「猫のいいとこ取りを、次の研究には盛り込むかな」

「だめ!猫も、他の動物も獣人は私だけがいい!」

「そうだな。研究成果の具現化は君だけで十分だ」


 実際に獣人と為したのはクオラだけであった。人間の志願被検体なぞ他にいるわけもなかったし、彼女に使ったような高級材料がそうそうあるわけでもない。そもそも、人体を動物の特性を交えて強化するという目的の副産物として生まれた実験であった。マービン本人、薬品を作り仮想実験を進めるだけで満足していた。

 しかし、その仮想実験で生まれるデータや余剰薬物の行きつく先には無頓着であった。目の前のことしか関心がない男だった。だから凶悪なカルテルの中で生きていられる。

 マービンの言葉と共に撫でられるクオラの特権幸福は、猫らしくご主人様に溶け込んでいって課題は曖昧になっていく。舐める頬の髭が緩く舌を刺激して、誰にも彼を取られたくないとの獣の独占欲は彼女に残る人間性を僅かにしていった。残った人間性が暴走を止める訳でもない。ただ、始めた脱衣をいきなり下半身からではなく上着から順に行わせていた。交尾は野獣の本能だとしても、生殖器の露出だけでなくわざわざ裸になろうとする情緒を持たせる心は併せていた。


「待てよ、待てったら・・・これはなんだ?」


 服の前合わせから見える肌は臍を越え、熱い汗が光っていた。接吻は避けようとして首を曲げるマービンの目に床に落ちた連合の保護書類が入り、肌を伝う欲望は冷汗に変わる。


「連合の保護プログラム、クオラのサインが書いてあるな。なんだってこんな」

「あ、あのさ!連合だって、国予だって、そんなに悪いとこじゃないと思うんだ!」


 順序をスッ飛ばし言いたい結論ありきで発した。マービンを翻意させるための会話の組み立てなぞしていない。叫ぶだけ叫んで、後の言葉が出ないままに固まった。彼はしばらく書類に目を通すと無表情にクオラを見据えた。


「まずは話してみな」


 クオラに失態があった時のマービンの口癖。叱るではない寧ろ諭すような瞳であるのだが、陸島連合を嫌うことを知っている彼女は自然と咎められる心境であらましを吐いた。


「連合の人間を嗅ぎつけたら攻撃しろって命令、生きてたんだな」


 膝にクオラを乗せて、彼女の頭ごと胸で言葉を受けていたマービンは始終黙って聞き、自供が終わると他人事のように呟いた。どうとも感情の籠らない声で怒るとも呆れるともとれない様子だった。


「クオラは賛成なんだよな。同意書にサインもしてあるし」

「私は、きっとこれも良いことだと思った。国予の三人も連合の二人も、悪い人だと思わなかった。ちょっとは怖いこともあったけど、話して分かってくれないような人たちじゃなかったよ。血の通った人間だよ。きっと友達になれる」

「クオラはどうも単純でいけねえなあ。個人の性格上良い奴なんて幾らでもいる。でもその性格の良い奴らが組織として編成された時、性格がシビアな方針に与することなんてないんだよ」

「でも、ずっとこんなとこにいるよりも・・・麻薬売ってる奴らは人を痛めつける手をたくさん知ってるよ。怖くなったんだ、もし用済みと思われてマービンが酷い目に遭ったりしたら」

「それも誰かの入れ知恵か?」

「うん、そうだけど・・・」


 今にも泣き出しそうになって潤むクオラの瞳から涙が溢れる。マービンはこれ以上追求せずにカップに湯を足した。


「ここの茶も飽きてきたな」

「え?」

「茶葉は皆汚い取引の土産で手に入る土産のお下がりだ。これをくれる奴らは同じ物しか持ってこないらしい。いい加減飽きたよ」

「新しいお茶、買ってこようか?」

「俺が自分で買いたい。もっと自由に手広い土地からな。イスベルタの中に居ちゃできない」

「だったら、マービンも一緒に!」


 涙が弾け飛びパッと丸い猫の目が輝いた。マービンは目を細めて彼女の頭を撫でた。


「外に出る身支度はしておけよ。俺も必要な研究資料はまとめておくから」

「うん!詳しいことはまた知らせるね!一緒にお茶買いに行こうね!」

「わかったわかった。今日は寝てひとまず落ち着けよ」

「わかった、おやすみ!」


 爛々としてクオラは同意書はそのままに、さりげなく件の鞄を抱えて部屋を出た。マービンは鞄の存在に気づいていたが追及しなかった。


 部屋に残ったマービンはボーッと書類を眺めてから火種と茶葉の大缶を探した。缶は書類が丸ごと入る。彼は書類を入れると擦ったマッチを近づけた。


「ねえマービン、一緒に寝てもいい?」


 急に入ってくるクオラに驚いて床にマッチを落とす。慌てて踏み消しながら缶を机の下に追いやった。


「いいよ、先にベッドで寝てなよ。後で行くから」

「ありがと!じゃあ先に行ってるね」


 去ってからは再びマッチを擦ろうとはしなかった。缶から書類を出すと研究資料のファイルに挟んで机に置いた。


「まあ、あいつだけこれ持ってるようにする方がいいか」


 何もかも終わらせるためには良い機会だった。ただ、身を処すのは自分だけで良い。

 禁忌を求めた報いは、クオラには受けさせられない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る