第22話 ケイトのファントム

 ケイトは王宮裏の、いつしかジェフと戦闘機を眺めていた高台に来た。横から見ると戦地の方が見えたが、望楼から見たときより戦火は小さくなっていたようだった。それでも時折、手前の方で火の手が上がり、石畳と壁には灰とも煤ともつかない汚れが点々としていた。しかし飛行場の方は静かで、空気を肺いっぱいに吸い込み深呼吸すると静寂に安心した。


「ファントムは元気かな。元気って、人じゃないから変か。もうこれで最後だし、ちょっとくらい見ててもいいよね」


 今は水が止められている噴水の石垣に腰を下ろした。被っていた軍帽を脱ぎ、付属の紐で背負った。尻に回ったガラス製水筒を抜き出し水を少し飲んだ。口腔内が水の甘さだけでは物足りず、そうだ、ここでドーナツ食べたんだっけ、と唇を舐めた。目を皿にして飛行場の方を見たがF4戦闘機の機影は判別できなかった。

 前最後に来た時は一人ではなかった。想いを寄せる男がいて、ドーナツを分け合って、彼の口元を弟にするように拭ってあげた。そして彼の胸で泣いてみたりして。別れる時のそら虚しさ、寂しさ、いったいなんだったのだろう。今も同じ気持ち。

 脚を石の上に乗せ膝を抱えた。額を膝頭に押し付け彼の名前を口にした。


「ジェフさん」


 落ちた涙は腰のあたりでたわむ上衣の裾に吸収され、紺サージの生地に溶け込んで滲みすらしない。寒さを感じ丸めた背をさらに縮めた。耐え切れない寒さだった。頭の内側、脳に刻まれる皺の一本一本をジェフが伝っていく。容姿、煙草の匂い、OD色生地を通して感じた熱い身体、低いのに甘い声。紅茶に砂糖を入れすぎたようなそんな甘さ。糖度が膨れ上がって苦みを覚えるような、全身でジェフを感じる。ケイトがジェフで染まっていくほど彼の存在が夢みたいだった。


 警護士の黒短靴とは明らかに違う足音が聞こえる。革底の甲高い音ではなく、抑えられた音だった。音は走ってケイトの方へ近くなってきた。布と重そうな何かが擦れ合う音の中で、息遣いを耳にした。


「ケイト・・・か?」


 足音は止まり息遣いは声に変わった。夢の中の一片、ジェフの声が突然現実となって鼓膜を貫いた。顔を上げて左を向くと、残りの夢が全てケイトから抜け目の前の本人に吸い込まれた。再構築は一瞬だった。ただ、髭だけは剃ったのか見当たらず、記憶の中に残って寂しく光った。


「ジェフさん?ジェフさん!」


 ケイトは地面に足をつけると跳び上がり、前のめりの身体でジェフの胸に飛び込んだ。固い鍵が布越しに鼻とかち合った。血と鉄、硝煙の匂いに混じって彼の汗臭さが愛おしかった。


「わたし、ジェフさんが好きです!変わっちゃった、変わってしまいました!」

「俺もはっきり言える。ケイトが好きだ」

「どうしよう、どうしたらいいんでしょう。ジェフさんのことが好きで好きで・・・あなたが生きててよかった!」

「ケイトは、怪我や病気しなかったか?」

「はい、私は丈夫です。とてもとても。ねえ、ジェフさん、私たち、こんなに好き合ってるのに、離れ離れにならなきゃいけないんでしょうか?」


 愛してる、という言葉が出せない幼いケイトがたまらなく愛しかった。ジェフは涙が溢れそうな瞼を閉じきつく彼女の頭を抱いた。前抱きしめた時の何万倍も、ケイトの隅々まで自分の身体が満たされた。

 ジェフは片手で鍵を引き出した。ケイトの目の前に立てて出すと、覚悟と怯えの混じった目で受け取った。


「俺はケイトに恋した。ケイトも俺に恋してくれた。それだけで充分だ。知ってるか?恋って永久に残るんだ。これからケイトが誰を愛することになっても、俺たちはずっと恋していける。恋したというのが身体に残って。たとえ俺がこの国に入れなくても」

「私を、私を連れ出してください!ジェフさん!どこにでも!」

「ケイトはこの国で生きろ。俺も外の世界で生きる。どこにいてもどんな風になってても俺たちは会えるんだ。この鍵が俺たちを繋いでくれる」

「納得できません!でも・・・納得しなくちゃいけないんですね」

「今は辛いかもしれない。これから俺のことを思い出せ。大丈夫だ、俺はここにいる」


 撫でる頭の香りが心地よかった。ケイトはジェフから少し離れると肩をギュッと握った。染まる頬に涙が伝い、指で優しく弾いてやった。くん、と顔を上げると噛み締めていた唇を少し開いた。唇の桃色がジェフの目に映えた。


「好きな人への挨拶、これだけは知っています」


 掴んだ肩を思い切り引き寄せキスの瞬間、声は震えていなかった。


「さようならジェフさん。私のファントム。ジェフさんの中にも、私が生きていけるように」


 柔らかな感触にときめく心、まるで初恋のようで、初めて捧げられる唇が尊く暖くって。他の世界は関係ない。ここが世界の番外地、二人だけの園。閉じた瞼を開けると、ケイトとジェフ以外は確かに白銀で、もう一度目を閉じた。


 ケイトが先に離れ、背を向けると走り去った。ジェフは視界が戻るまでしばらく佇み手を唇に添えた。美しい夢を見ていた。


 車に戻る道中、もう他の人間は皆退避したのか誰ともすれ違わなかった。WDWKの前十数m先には、迎えなのか憲兵隊の装甲車がアイドリングして待っていた。憲兵が一人外にいてジェインの兄かとも思ったが、本人であるかどうかは広場の照明で逆光甚だしく判然としない。後部出入口に足をかけ片腕上げると、憲兵も手を上げ装甲車に乗り込んだ。

 シャーリーとチャルは二階にいて、銃座から射し込む明かりに照らされていた。床にあぐらをかくチャルの脚の間にシャーリーは尻を置き、長く白い脚を投げ出していた。血色なく蒼白な肌だった。チャルの胸に頭をもたげたシャーリーはまるで赤子。


「ジェフ、行くよ」


 泣き腫らした目をくるりと向けシャーリーが煙草を出してくれた。ジェフは見向きもせず装備を解き、黙って階下の床に突っ伏した。二人は顔を見合わすと運転席に戻り車を緩やかに発進させた。ジェフの頭の先に落ちていたタブレットが鳴った。命令発令を伝えるアラームだった。顔を上げずに電源を切り、しばしの間まどろんだ。

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