第6話 おじいちゃん閣下

 涙の粒を付けたままのシャーリーは駐屯地をぶらついていた。チャルもついて行こうとしたが、ジェフに付き添うように言って車に返した。どんな娯楽施設も時折すれ違う色男や美女にもときめかず、ナンパも無視し、被ったソフト帽の庇をぐっと下げ遅い歩みを続けた。

 弱々しく動く脚はいつのまにか道の中心に身体をよろめかせていた。うなじををヘッドライトの眩い光が温め、クラクションがぼんやり聞こえた。


「おい!どこの兵隊だか軍属だか知らんが端に寄れ。師団長閣下の車が通る、邪魔だ!」


 振り向くと、一台の乗用車がエンジンを唸らせ将官旗がぐったり垂れていた。退かずに車を見据えていると更なるクラクションの威嚇、だが車内で何か揉めたと見えると中から見覚えのある老けた顔が出てきた。王宮でジェフがペコペコしていた師団長だった。


「君は王宮で会ったね。こんな夜更けにどうしたのかな。ひどく寂しい様子だが」


 温厚な笑顔や言葉も今の荒むシャーリーには鬱陶しかった。彼女は無礼とも思わず胸元のボタンを外し舌を出した。ついでにベルトのないホットパンツの前を少し押し下げた。パッと背に流した長い三つ編みが揺れる。


「なーに、おじいちゃん。私を抱きたいの?お金くれたら好きにしていいわよ」

「貴様!閣下に対して失礼じゃないか!」


 運転手が出てきてシャーリーに詰め寄ろうとしたが、師団長はそれを留めた。ゆっくりとシャーリーに近づき顔を覗き込むと、自身のポケットからハンカチを差し出した。


「泣いているようだね。これはまだ新品で使っていない清潔なハンカチです。よければ使ってください」


 シャーリーはきょとんとハンカチを受け取った。師団長の目尻に刻まれた深い皺に、彼女は今の振る舞いを後悔した。


「・・・ありがとうございます。失礼しました」

「いいんですよ。これから官舎に帰るところで、よかったら休んでいきなさい」

「お言葉に甘えても?」

「もちろんですとも」


 老人の優しさに絆され、シャーリーは車に乗り官舎へお伴した。師団長の官舎は質素な作りでも、暖炉も備えた高級住宅のようだった。彼女は師団長のコレクションという調度品に息を呑んだ。


「すごいですね!私は骨董品はわからないけど、これみんなすごいって感じます。お家も私たちのとは比べものにならないくらい!

「簡単な家でいいと言ったんだけどねえ。大工出身の者が多い工兵隊が張り切って作ってくれて、せっかくだからちょっと私物を並べてみようと」

「師団長って、偉いんですってね。分隊長のジェフから聞きました。あ・・・」


 流れるままにジェフの名を口にしてしまい、にわかに顔を影が覆った。師団長は見逃さず優しく言った。


「何があったんだね」

「はい、師団長ドノ・・・」

「話を聞こう。あと、師団長はやめてくださいな。できたらさっきみたいにおじいちゃんと呼んで、敬語も止してくれたら嬉しい。」

「え?でもどうして」

「クエイさん、貴女孫に似とるんです」


 師団長は少し恥ずかしがって頬をかいた。しばらく家族と離れて生活しているから里心がつき、ひょんなことで出会ったシャーリーをいちばん懐いてくれる孫娘と重ねた。孫娘の方はよほどまだ子どもであったが。


「なるほど。きっと閣下のお孫さんは私よりずっと若いだろうけど。じゃあ私のこともシャーリーと。私は祖父を知らないけど、おじいちゃんとこうして話すとなんだか安心しちゃった」


 家庭での少女は家族とどう話すんだろうかと、いつか映画で見たシーンを思い浮かべ師団長の側にひざまづいた。彼の腿に腕を置くと暖かかった。


「こうやってお話ししても?」

「ええ、孫もこうして側でいろんな話をしてくれる」

「とても懐いているのね。私も懐いちゃお」


 外に待機する当番兵は副官とヒソヒソ噂しあっていた。あの定年延長している御老体で女を抱く元気があるのかと。だが聞こえてくる笑い声や穏やかな談笑に顔を見合わせる。


「どういうことかな、てっきりアレしてると思ったけど」

「あの女、初め閣下を誘ってましたしねえ」

「わからんね。だけどいい女だ」

「副官、その気が?」

「バーカ」


 シャーリーと師団長は他愛のない話をしては笑いあっていた。任務中見てきたことや出会った人々、家族のことなど。彼女はこの会話が楽しくて悩みを切り出せずにいた。ずっと膝をついていたから足が痺れてきてソファーに移動すると、対面の窓から王宮の灯が見えた。シャーリーは会話を続けようとせず、窓の外を眺め考え込むように黙った。


「シャーリーの涙は、あの国に原因があるみたいだね」


 師団長はすっかり冷えたコーヒーをすすった。シャーリーは新しいコーヒーを淹れようとしたが留められ、背を丸めて自分の腿に頬杖つくと甘えたように言った。


「わかる?おじいちゃん」

「ええ、そうやって王宮の方を見て考え込んでいるみたいで」

「そうなんだ、私の悩みはあの国」


 話してしまえば、ジェフとケイトになんらかの影響が及ぶかもしれなかった。師団長はそれだけの権限を持っている。だが一緒にいると屈託無く落ち着いてしまう今しがたできたこのに、なんでも言ってしまいそうだった。


「誰にも言わない?」

「犯罪が絡んでいない限り誰にも言わないよ。部下にも連合にも」

「犯罪ではないわ。でもひょっとしたら、世界と本人にとってはとてつもない罪になってしまうかも」

「シャーリー自身のことではないのかい?」

「私自身のことじゃないけど深く関わってる。分隊長のジェフのことなの。それから、あの国に住むとある女の子のこと」


 罪と聞き、倫理的なことであると察した。それに色恋沙汰であるとも。家族と様々な部下を長年持つ師団長はシャーリーの悩みを理解した。

 師団長はコーヒーを飲み干すと手元の机にカップを置いた。


「そのジェフ君と女の子が何かあったんだね」


 シャーリーの目に再び涙が滲んだ。彼女は堪え切れなくなり、もう話してしまおうと口を開いた。短い言葉は簡潔で、しかしとてつもなく複雑な背景が絡んでいると誰にでも解った。


「ジェフね、その子に恋してるの」


 師団長の膝に頭をもたげて横になると彼は優しく撫でた。膝頭に涙が落ちて一点の模様になった。師団長はしばらく黙ってそのまま撫でていた。


「世界の罪、か。そうは思いたくないものだ」


 シャーリーは向きを変えて口を開いた師団長の顔を見上げた。彼は窓の外と卓上の家族写真を交互に見ていた。シャーリーは涙を拭き小さく鼻をすすった。


「でも、住む世界が違うのよ?私はあの国が嫌い。お妃様や親切にしてくれた人には親しく思ってるけど、国自体が綺麗すぎて気味悪い」

「よっぽど酷い暮らしをしていたみたいだね」

「そうでもないわ、多分。でも私たちの世界が薄暗く汚れて、乱暴さえ支配することがあるのはよく解ってる。戦って生きる世界だもの。あの国にはそれがない。ひたすら平和であることに努めて、とてもいいことなのかもしれない。否定はしないわ、ただ私には合わない。きっとジェフにも」

「彼には合わないだろうね。記録を読んだが、誰でも同じような、この世界にしか向いていない」

「記録?」


 肩を撫でていた腕を斜めに上げ、壁を指差した。その先にはいくつもの旗と写真がかかっていて、どれかを示しているらしかった。


「あの写真だよ。私は師団長になったばかりだった。53地区平定作戦の時だ。大きな戦闘だった。彼は私の師団の下級部隊にいた」

「そういえば、ジェフそんなようなこと言ってた。おじいちゃんの部下だったって」

「遠い関係だけど間違いじゃない、教導隊の一人だった。思い出したよ。後方にいた教導隊は迂回してきた敵に急襲され、数人しか生き残れなかった。だから教導隊の面々を顔だけは覚えていた」

「知らなかった。昔の戦争のことは何も話さないから彼」


 写真は指揮官であるのに戦闘服で武装を施した師団長を始めとする司令部要員だった。ボロボロに汚れた天幕の支柱に護衛小隊のライフルとピストルベルト、手榴弾が掛けられていて、背景にちらほら写る兵隊は疲弊しきった不貞腐れた表情で煙草をくわえている。当時のジェフも変わらないはずだった。


「拝謁の後なんとなく当時の記録を読み返してみた。彼は根っからの戦闘人だね。成果も上げているのに未だ下士官で分隊長止まりなのが不思議でならない。だけど、あの少年にもこんな素敵な仲間がいて、恋をする心も持っていたんだね」

「ジェフは感情の多い方だと思う。でも、だから困っちゃった。恋のことでさっき大げんかしちゃった」


 師団長は微笑むとポケットから国予手帳を出し開いて見せた。彼の若い頃の写真で、今はもう存続してるかどうかわからない軍隊の軍服を着ていた。隣の美女を抱き寄せている。


「これおじいちゃんね。綺麗なこの人は奥さん?」

「婚約中の頃の写真だよ。撮った時からずっと持ち歩いてる」

「いいなあこんな綺麗な人が家で待ってるなんて」

「亡くなったよ、三年前だった」


 シャーリーは悪いことを言ったと思い顔を背けて「ごめんなさい」と小さくなる。だが当人は微笑んだまま、ちっとも寂しそうではない。


「謝ることはない、恋には思い出がある。どんな恋であれ。私は結婚するまでに何人にも恋をした。ひどくフラれたこともある。だけどその恋たちは、今だってずっと私の中に輝いている。もちろん妻は特別だけどね」

「どんな恋も?」

「そう。恋に限らず、好きという感情は、何かを達成したという結果だけの価値があるわけじゃないんだ」


 シャーリーの涙は止まった。静かな幸福を噛みしめるように思い出し、大切に手帳を握る師団長が輝いて見えた。この光の裏には悲喜こもごもあったに違いない。しかしそれを喜だけを捉えて心の中に留めている。彼がたまらなく羨ましくなった。


「きっと、二人の恋は実らないだろう。悲しいことだ。だけれど、きっと、心には輝くものが残ると、僕は信じるよ。それでいいんだ」

「そう思わなきゃね」

「シャーリーはジェフ君の側にいてやりなさい。友達がいて支えてやれることは幸せなことです」

「うん!仲直りする。でも今日はおじいちゃん家に泊まってもいい?」

「いいとも。早速部下に部屋を準備させよう」

「おじいちゃんと一緒に寝る!」

「はは、それは参ったな」


 夜が更け談笑の声冷めやらぬ内、何人もの部下が居室の前に集まっていた。軍規正しい連合隷下師団の兵士たちは任務中であるため外出が減らされ長く女に触れていなかった。シャーリーが師団長の腕を抱いて出てくると皆逃げきれず整列し、まるで閲兵の様。


「やらしーこと考えてるんでしょ。一緒に寝るだけよ、文字通り」


 シャーリーが舌を出してうそぶくと顔を赤くして見送った。

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