第3話 ルガ―・バレット
「ちぇ、減るもんでもあるまいに。減るのは男のほうだっての」
郊外にある大型駐車場を抜けジェフは街に入った。街、というには誇張された表現かもしれないが、よくある広原に取り残された田舎町である。ぽつぽつと家があり、そこに紛れてたまに公共施設と思われるような建物があった。電気、水道、ガスは通っているようで、弱々しくも武骨な送電線が暗い夜空に網を張っていた。
ひどい田舎町になるとインフラが整っていないところも珍しくない時代になったので、見知らぬ土地へ行くときは大型の移動ハウスのようなキャンピングカーを必要とした。そしてそんな土地ではきまって生活必需品の奪い合いが激しく、武装をせずには生きていれなかった。そのことを考慮すれば旅人特有の過剰な警戒心も必要なさそうである。休養に寄るだけの街ならば深く関わる気もないので、とにかく見せかけの治安さえ安定していればそれでよかった。
人通りも少なく走る車もまばらな通りにも、その両端では呑んだくれのために明かりを漏らしている店はいくつかある。その中の、落ち着いたネオンの浮かぶ店をジェフは選んだ。看板にルガー・バレットの文字。
「女はいますか・・・っと」
中は広めのホールになっていて、そこに点在するテーブルでは男たちが
余所者であることを悟られる前にカウンターに席を取る。煙草とジッポーライターを取り出すと、ようやく周囲を観察するだけの余裕が生まれた。とはいってもカウンターには青年か少年か判らないような男が一人だけである。しかし、その男の美少女ぶりがジェフの目を引いた。愛想のよさそうな顔でグラスを傾け、手首には今どき珍しいダブルカフスに黒いカフリンクスが光っていた。
へえ、やけにかわいい男もいたもんだな。近づいて声の一つもかけてみたいもんだが、あいつに風俗のことを聞くのは気が引けるな
ジェフは視線を男から外し、軸に沿って火環が
一本目の煙草を吸い終えてもバーテンダーはまだ来なかった。いくら中途半端な時間に来たとはいえ、カウンターにバーテンダーがいないのは不思議だった。大体このような店のバーテンダーというのは老練な生き字引か店主であり、どちらにせよ自分の住んでいる街のことはよく知っているはずだった。休養のためふらりと立ち寄っただけとはいえ、街の様子を聞いておきたい。それにジェフとしては、風俗店のことが何より知りたかった。
そうこう考えているうちに、ようやく店員らしき女に声をかけられた。女といってもそれは子どもの声だった。
「お待たせしました、ご注文はお決まりですか?」
ジェフは目を丸くして一度だけその声の主を見つめると、辺りを見回してほかの従業員の姿を探した。数人のボーイとメイド、それにコックも厨房にいるはずだったが、彼の目の前にいるのは夜の店の雰囲気にそぐわない小さな子どもだった。どう見たって小遣い稼ぎに店の手伝いをしている女の子にしか見えない。
「酒が飲みたいんだ、バーテンダー呼んでくんないかな」
ジェフは二本目の煙草に火を点けながら少し意地悪そうに言った。彼は、この少女が赤面するか不貞腐れた顔でバーテンダーを呼びに行くことを期待したのだが、予想に反して少女は無い胸を誇らしげに張った。
「わたしがバーテンダーです」
「うそ」
「ほんとですよ」
「子どもなのに?」
その少女は身長の程150㎝弱、まだ尖らない輪郭に丸く大きな瞳、そのくせ大人びた縁無し眼鏡をかけていた。可愛らしい顔立ちだが、ピン留めされたブロンドのボブ髪を包む白い三角巾がより一層少女の芋臭さを醸し出している。悲しいほど隆起の無い胸に質素なエプロンドレスはよく似合った。少女はジェフの言葉に不満を持ったのか、腰に手を当て桃色の唇を尖らせた。いかにも子どもらしい仕草にジェフは軽く苦笑した。
「見た目は子どもでもバーテンダーです、店主なんです!」
「今度は店主ときたか。おトシはいくつ?」
「13です!」
「あーあ」
「なんですかその気の無い声は」
「酒、解るん?」
「解るって?」
「要は酒を知ってるかということ」
「やだなぁ。わたし、未成年じゃないですか」
「そうですよね・・・」
ジェフは最後の灰を落とし煙草の火を擦り消したが、三本目に火を点けるのをためらった。どう見てもこのばーてんだーは酒のことを解っていないようだし、下手に混ぜ物されたら悪酔いは免れない。
もう店を変えてしまおうかと考えていると、ジェフの煮え切らない態度に困惑している少女に件の美少女男が助け舟を出した。
「おニイさん、その
よく透き通った美しい声だった。まるで女性声優が優男の声を演出しているような錯覚を受け、ジェフはこの男を女性と認識した。そうなるとどことなく沸いてくる恥じらいの念の軽率な陶酔に浸りもしたかったが、膨らみの無い胸や男物の服装から彼を彼女だと認めるまでには至らなかった。
了解の意を軽く手を振ることで表し、新しい煙草に火を点けながら少女の背後の酒棚とメニューに目を配った。
「カンパリ・オレンジ」
「はい、かしこまりました」
安心したような笑顔で少女は作業に取り掛かる。カンパリとオレンジジュースをグラスに注ぎ、手際よくステアしていく。繊細な手つきで氷を躍らせ、子どもっぽい表情とは打って変わって静かに湛えた笑顔が頼もしく見えた。最後に器用に切りそろえられたオレンジがグラスに添えられジェフの前に供された。
「お待たせしました、カンパリ・オレンジになります」
ほのかに香るオレンジはジェフの好みであり、澄んだリキュールがライトの光を赤く蓄えていた。ちら、と少女の方を見ると期待を込めた笑顔でジェフのことを見つめていて、また男の方に顔を向けると自信に満ちた表情で微笑みかけていた。何の気なしに目をつむり、ジェフはグラスを傾けた。軽い苦みと甘さが舌を伝わり、オレンジの香りが心地よく広がる。ジェフは満足の溜息を吐くと、瞳は閉じたまま口角を上げホールド・アップした。
「ステアの手つき、味、たしかに君は立派なバーテンダーだ。いい顔してたぜ」
少女は思わず両手を合わせて小躍りし、喜びのジェスチュアをした。揺れるボブ髪と眼鏡の奥の緩んだ
「よかったぁ、わかってもらえて。お客さんが出て行っちゃったりしたらどうしようって思いましたよ」
「そんなことはしないさ。それより、つまみを頼む。油気のあるやつがいい」
「メニューを見ますか?」
「いや、バーテンダーのおすすめに任せるよ」
そう言ってやるとすっかり少女は舞い上がり、嬉々として厨房に向かった。やれやれ、静かになった、と再びグラスに口を付ける。耳をすませば静かにジャズピアノの音色が聴こえてきて、ジェフは自身にとって嬉しい空間であることを知った。
「ね?おいしいでしょ」
気が付くと、男がグラスを片手に席を移動してきていて、身体をピタリと寄せると顔を覗き込むようにしてジェフを見ていた。なぜか得意げな顔である。カラ、とアイスボールが鳴るその中身はウィスキーらしかった。
「意外だな、腕もいい」
「お母さんが全部教えてたからね」
「お母さん?」
「ここの本当の店主」
「ああ、やっぱり」
「なんであんなちいさな
「ないね、酒と飯がうまければそれでいい」
「つまんないや」
「どうせありふれた話なんだろう」
「いやあ、それがなかなか悲しい話・・・」
男が続けようとすると、ちょうど少女が料理を持ってカウンターに入ってきた。おしゃべりなことを自覚しているのか、男は少しだけ静かにする。少女が持ってきたのは薄切りにした肉の揚げ物だった。
「『お揚げ』になります」
「なるほど、『お揚げ』だ」
「それ、ボク見たことない」
「最近、わたしが自分で考えて作ってみたんですよ!」
「オリジナルのは初めてなのかな」
「ええ、もうちょっと自分でもレパートリーを増やしてみようと思いまして」
「薄切りの肉はふつう焼いて食っちまうから、揚げるのはありそうでないもんだよな。いや、そんな天ぷらがあったっけ?」
「テンプラ?」
「なんでもない。さて、いただきます」
皿にはフォークではなく珍しく箸が添えられている。ジェフは器用に箸で肉をつまみ口にした。軽く塩気が効き、濃厚な脂が中に染み渡った。飾り気のないシンプルなこの料理はジェフを楽しませた。
「ボクにもすこしおくれよ」
箸を口に運ぶジェフに、男はすり寄ってやけに色っぽい声を出す。先ほども似たようなことは思ったが、男の意識して媚びた目が艶っぽい。
本当に男なのか?小さな疑念を隅に、官能的にのぞかせる紅い舌に冷ました『お揚げ』を置いてやった。この上ない幸福な顔を作りゆっくりと
「おいしーい!さすがはノア店主さま」
「そんな~これくらいならアーニャさんにだってつくれますよぉ」
ひょんな会話から一度に二人の名を知る。彼女たちのやけにくだけた会話は、歳の離れた二人がかなり親しい間柄にあることがうかがえた。
「きみたちの名前、初めて知った。仲いいんだね」
「アーニャさん、結構前からこの街に滞在していらして、よくうちを利用してくださるんです」
「こんなにかわいいマスターがいるからね。そういえば名乗ってなかったっけ」
「うん、気づいたらこの輪に組み込まれてた」
「改めての自己紹介もする?」
「この可愛らしい店主がノアさん、きみがアーニャ君。そうだろ?」
「アーニャくん?」
アーニャは突然吹き出した。ノアもノアで、吹き出しそうなのをこらえて顔を背けている。ジェフは二人がなぜ笑い始めたのか見当もつかず、呆気にとられた。
「なんだい、突然笑い始めたりして」
「いやーごめんごめん。きみがあんまりにも不思議なことを言うもんだから」
「俺が?」
ノアの方を見ると苦しそうに顔を真っ赤にして口元を抑えながら縦に首をぶんぶん振っている。呆れた顔をして煙草を喫んでいるとようやくアーニャは落ち着いたようだった。ジェフはふと思いついた疑問をアーニャに投げかけた。
「しかし、考えたらアーニャって名前は珍しいよな」
「そう?」
「いや、男にはさ。普通はヨーロッパ系の女性名じゃないの」
「なるほどね」
ジェフは自分の名も名乗ろうとグラスを置いた。だがそれよりも早く、アーニャははにかんだような笑顔を作り自分の方へ向き直ると熱い目で見つめた。言葉を詰まらせ、瞳に映る自身の困った表情は、わずかながら火照っているようだった。煙草を離した唇をゆがませながら彼女の言葉を待った。
「ボクの秘密、教えてあげようか?」
「秘密?」
「ほら」
目をつむる暇もなかった。アーニャは瞬時に顔を寄せるとジェフの唇にしっかりと食いついた。首に両腕を固く回して一体となる。茂みの草を食べる動物のように髭面の中をアーニャの口は動き、ジェフの舌を探し求めた。彼の舌も自然とその官能を求めて動き始め、舌同士はランデブーして粘液により絡みついた。
おおよそ十秒、二人は吸いあっていただろうか。赤面して目を見開きながらもその場を離れようとしないノアの眼前、ようやく水音弾けて唇が離された。
「・・・なるほど、予想外の秘密だ」
「ほんとは気づいてたんじゃないの?」
「疑いもしたさ。だけど、男だと思おうとしてた」
「ご感想は?」
「女のキスだ」
キスが上手かったのは事実だ。唇の押し付け方でデキあがった女の求欲だとすぐに判った。アーニャは女と聞いてぱっと輝いた笑顔をする。子どもにしかできないような笑顔であり、ジェフの好みにぴったりだった。男そっくりに化けれるくらいボーイッシュなのに若く女として燃えるギャップが堪らなかった。
「うれしい。このお店は宿にもなってるし続きをしようよ。二人きりで」
「続きって、どこまで?」
「白い夢が見られるまで」
「決まりだな」
ジェフは残りのカクテルを飲み干すと、アーニャの背と膝裏に腕を回して抱きかかえ立ち上がった。その時、アーニャはまたジェフの首筋と頬にキスをした。
「俺の名を名乗ってなかったな。俺はジェフ。ただのジェフでいい」
「ジェフ?アジア系の顔なのに珍しいね」
「・・・・・」
「あれ、聞いちゃいけなかった?」
「話すのに疲れるくらい、くだらんのよ」
「えー知りたいようー」
ジェフは溜息を一つ吐き、その要望は全く無視してノアに向き直った。その時アーニャが少し不貞腐れたような顔をしているのが見えたが、それもまたいかにも少女らしい表情で心がくすぐられる思いだった。
「覚えてたらまた今度教えてやるよ。それよりノアさん、ここは宿にもなってるんだよね。部屋は空いてるかい?」
「はい、今日はまだ空きがあります」
「じゃあ一部屋頼む。チップは弾むからいい朝食でもサービスしてくれよな」
「はい!」
そこでやる気を見せたノアだったが、次の一言でまた赤面してしまうことになる。ジェフとしてはまったく自然な言葉だった。
「休憩の相場はいくらだ?」
流石に意味くらいはすぐに解った。いくら男性経験も当然性体験も皆無のノアでも、男女の休憩の意味と休憩というシステムを有するホテルの目的を知ってはいた。自分がついさっき入って掃除した場所で何が行われるのかと考えようとすると、脳がオーバーヒートしてしまいそうだった。
「・・・こ、ここは、そういういやらしいホテルじゃないです」
「あっ、それもそうか。ラブホテルじゃねぇわな」
ジェフとアーニャはゲラゲラ笑って避妊具の心配をしてみたりしたが、ノアは恥ずかしくて聞いていられなかった。仕方なく、ノアは鍵を二人に押し付けて宿泊の注意事項や連絡事項を手短に説明すると、「あんまり、汚さないでくださいね・・・」とだけ言い残し、足早に管理人室へ消えてしまった。注意事項に「性行為禁止」とでも付け加えればいいのだが、性交のセの字だけで脳が煮あがってしまい何も考えられない。
「しかし、よく俺と寝る気になったな」
部屋へ入り、内装を見分しながらジェフはふと浮かんだ単純な疑問を投げかけた。見たところ商売女でもなく、本当にただの行きずりなのだが、突然見も知らない男に強烈なアプローチをかけてきたのは不思議だった。こんな髭面で年より老けて見えるような男ではなく、もっと二枚目もいたはずである。偶然隣の席で店主と交えて少し話をしたというだけなのに。アーニャは鏡を見つけ、自分の身なりを確かめながら何でもないように言った。
「君のオーラがギラギラしてたからね。なんだか餌を途中でおあずけされちゃったオオカミみたいな」
「はは、あたり」
「ボクもちょっとご無沙汰でね。身体が火照っちゃってしょうがなかったんだ。それにこの街に若い髭面ってのもあんまりいないから、君がピタリだったのさ」
「わざわざ髭面と?」
「髭面を食べたり髭面に食べられてみたいの」
変な理由だ、とジェフは首をかしげたが、都合が合っているのならあとはどうでもよく、先程文字通り食べられた髭を撫でてみたりした。アーニャは見ていた鏡から身体をよじらせてジェフの方を向き、悪戯っぽい声でからかった。
「実は、恋人さんなんかいちゃったりするんでしょ?」
「恋人、ってのは変だけど、心と身体のお相手をしてくれる女の子はいるよ」
「セックス・フレンド?」
「その言い方はちと語弊があるな、友達だよ。旅をする身なもんで、どうしたって溜まるよな。初めはたまのイタズラなもんだったけど、身体の相性も悪くないもんで、気づいたら習慣になっちゃったってわけ」
「でも、今日はその
「街に着くといつもそう。疲れてるか、他の男も抱いてみたいなんて言ったり。だから風俗を探して街に繰り出したのさ」
「おーけーおーけー。女の子の店のことなんて、ノアちゃんに聞いたら赤面して倒れちゃう。その前にボクに逢えてよかったよ」
アーニャははにかんだように笑い、それから無邪気さを表情から消し、少女のような期待と恥じらいを込めた目でジェフを見つめた。
「ね、脱がしてよ」
ジェフは湿った瞳に惹き込まれるようにアーニャのもとへ立った。上着は既に脱いでおり、その上に置かれた
「なんだ、有るじゃないか」
「無い方が良かった?」
「少年の性格なのに性徴は女、気に入ったよ」
シャーリーにいつもしているように耳を甘噛みすると、アーニャは切なげな声を上げ首を反らした。二人は狭い浴室で足早にシャワーを済ますと身体を拭くのもそこそこに、アーニャは全裸のままベッドへ飛び込んだ。そして大の字になり男の身体を待っていたが、眉をひそめ困惑したかのようなジェフに気づいた。そして手を叩き、ぺろ、と舌を出した。
「もうちょっと、恥じらった方がいいのかな?」
「そういうことだな。早くシたいのは解るが、俺だって存分に興奮したい」
「大の字じゃムードがなさ過ぎたか」
アーニャは脚を控えめに閉じ、横たわったまま半身になって手を伸ばした。幾らか表情を溶かすのも忘れずに。艶やかな舌で唇に今一度潤いを与え、そして小悪魔的に。
「抱いて」
ジェフは頷くとアーニャの手を取り、今度こそ彼女に覆いかぶさった。
瞼にかかる陽のまぶしさにジェフが先に目を覚ました。昨晩のせいで疲れ切っており、頬がこけたように自分でも感じた。目覚めの一本、と思いライターと煙草に手を伸ばそうとしたが思うように体が動かない。それもそのはずで、いまだに胸の中に納まったアーニャの顔が小さく寝息を立てていた。自分の顔色とは対照的にアーニャの顔はより艶がかって見えた。頬に手を当てモチ肌を少しつまんでやると、重そうに瞼を持ち上げ惚けたような瞳をのぞかせた。
「・・・おはよ」
「よく眠れたようだね、アーニャくん。昨晩はあんなに元気だったし」
「君の腰使いが魅力的だったからね」
「よく言うよ、終いにはほとんど自分で腰振ってたくせに」
「でも、案外身体の相性が合っててよかったじゃん。ボクは結構気持ちよかったよ」
「そうらしい。君の肌は昨日にも増して艶やかなようだ」
にか、とアーニャは微笑みベッドから出た。カーテンを開けて気持ちよさそうに伸びをする。ぴん、と張った乳頭が光に当たり淡いピンク色で反射していた。陽に照らされ明るみに出た彼女の全裸を見ると、少年のような顔立ちはともかく、身体は丸みと控えめながらの凹凸が線を
「コーヒー、淹れるよ」
「頼む。煙草は?」
「ありがと、ちょうど切らしてたんだ」
「箱ごとやるよ。俺はフロントにモーニングを注文しておく」
「火、貸して」
「ほいよ」
「昨日から思ってたけど、いいジッポだね」
アーニャはジェフのジッポを褒め、小気味良い音で蓋を開いた。
二人して煙草をくわえそれぞれの作業にかかる。全裸で紫煙をくゆらすアーニャの姿はどことなくアンバランスで不良少年の気味はあったが、その吸いっぷりは本物だった。
アーニャが淹れてきたアメリカンと少々きつい煙草で別れの前のひと時を惜しむ。アーニャは再会への期待を込めてこんな提案をした。
「しばらくはこの街にいるんでしょ?出発する前にもう一夜くらい逢おうよ」
「それはいいが、君は長くこの街に居るつもりかい?」
「長くって程でもないけど、まだ少しここに居座ることになりそうなんだ。仕事の都合でね」
「仕事、ね。だったら休養がてら寄った俺たちの方が、早く去りそうだ」
「そういえば、仕事の話は全然しなかったね。ボクたち」
そう言うアーニャの言葉に昨日の会話を思い出したが、確かに仕事のことは全然念頭になかった。休養に来ているのに無粋なことは話題にしたくはないし、第一、仕事の話をするのは避けたかった。
「よしてくれよ、こっちは休養に来てるんだぜ。仕事の話なんて。それに、人に話すような大した仕事でもないさ」
「秘密の多い男だね」
「ほっとけ」
「ま、お互い秘密ばかりでもいっか」
「少なくとも、互いの身体の関係は明瞭だからね」
「すけべ」
「スケベついでに、オマケだ」
ジェフはアーニャの許へ行き、はだけるバスローブの隙間から肌に手を滑らした。「えっち」とアーニャは囁きあざけるもどこか乗り気で、少し増した頬の赤みで彼の腕を引き入れてみたりもした。唇を重ね、アーニャが股を開き、いよいよジェフを迎え入れるばかりになっていたが、そこで呼び鈴の出歯亀が入った。「朝食をお持ちいたしました」と言う声はノアのはずで、二人は苦笑しあって行為の中止をせざるをえなかった。
「はいよ」
「アーニャさん、ジェフさん、おはようございます。ご注文のお食事でございます」
「朝早いのにご苦労さん」
「もうお昼前ですよ」
「あれ、そんな時間だったか。昨晩は夜更かししたもんだから」
ジェフとアーニャは顔を見合わせると、にやりと意味ありげな笑みを浮かべまたしてもノアを赤面させた。ノアはあられもない姿の二人が映画のように求めあうのを想像し止めどがなかった。食事を乗せたワゴンを引き入れて足早に部屋を出ようとしたが、少し胸元をはだけたアーニャの身体が気になって仕方がなく、チラチラと視線を飛ばすその先には乳房上部のキスマークがあった。
「おやおや、ノアさんは、女の子の身体の方に興味があるらしい」
ジェフが軽くからかうとノアは唇を尖らせて反論しようとするも、歪な赤い印が気になるのは確かだし、また、普段は全く男のような立ち振る舞いのアーニャが女としての素肌を晒していることにどぎまぎしていた。
「アーニャさん、ちゃんと女の人なんですね」
「あれ、ノアちゃんはボクの秘密を知ってたでしょ?」
「そうですけど、普段のアーニャさんはなんというか、かっこよくて、王子様みたいで・・・今のアーニャさんは、まるで、そう、猫ちゃんみたいです」
「あれ、なかなかの良イメージ」
「でも、わたし、王子様なアーニャさんの方が好きですよ!」
思わずそう叫んでしまったノアは、はっとして我に返り「し、失礼なことを言ってしまって申し訳ありません!」と言うと部屋から駆け出ていった。残された二人はしばしの間目を合わせてぽかんとしていたが、次第におかしさがこみあげてきて吹き出した。
「モテるんだなあ、きみ」
「かわいくて素直な女の子は大好きさ」
二人は談笑しながら朝食を楽しんだ後、再開の約束を確認し、小さなキスを残してホテルを出た。手を振りあい、互いの背を向けて足並みも軽やかに去った。
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