孤独と微笑む、その色は
師匠、『被写体の声を聞け』って、本当にこういう事で良いんでしょうか。私はカメラを両手で構えたまま、何をしていいか分からず凍っている。そのレンズが捉える先には、暖かくて可憐で儚げで──
「あの、何か言って下さいませんか」
澄んだ女性の声で日本語を話す、一輪の花があった。
考えてもみて欲しい。写真を撮りに来たこの草原で、カメラを向けた花が唐突に「こんにちは」と話しかけてきたのだ。「あ、これはどうも、こんにちは」と返すのと自分の正気を疑うのと、どちらを選択するだろうか。ちなみに私は後者だった。
いやあ、師匠から日々『良いか華、被写体の声を聞くんだ。どう撮れば美しいか決めるのも大切だが、被写体がどう撮られたがっているかを知らなきゃいけない』なんて耳にタコが出来るほど聞いたせいで遂に私も頭がおかしくなってしまったか、それともこれからプロカメラマンとしての人生がパアっと開けるのかしら。そんなことを固まった表情のままで走馬灯よろしく思考していると、私が二十四の若さで正気を疑うことになった原因が今度は申し訳なさそうに「あのう、驚かせてしまったのならごめんなさい」と言ってきた。
「いや、こっちこそ無視しちゃって……」
その様子に思わず返してしまってから周りを見る。平日の午後二時少し過ぎ、こんな所にいるのは写真家を目指して弟子入りしたは良いけどその師匠がヘンテコな人で『世界と会話してこい』といきなり五万円を渡されて駅まで見送られた私くらいしかいない。隠してたつもりでしょうけど北海道行きの航空券持ってましたよね師匠。お土産くれなかったら次の写真展に師匠の変顔写真使ってやる。
少し脱線してしまったが、つまり何が言いたいのかというと、この突然話し出した花とちゃんと向き合って話す決心が固まったのだ。周りには誰もいないので台詞の発信源は目の前のそれでしか有り得ないし、もし私が狂っているのだとしてもそれを目撃する人はいない。我ながら完璧な作戦である。
「ええと、良い天気ですね」
「ええ、とても」
会話終了。距離感の掴めない付き合いたての男女だってもう少し上手くやるだろう。私は気を取り直してもう一度話しかける。
「綺麗な色ですね、暖かくてふわふわして」
「まあ、ありがとうございます」
すると花はとても嬉しそうな声で返してきた。強くない風に揺れるその様子が、不思議と口に手を当てているように見えた。顔があれば花が咲いたような笑顔を見せているのだろう。いや、実際花が咲いているのだけど。
「何という色なんですか」
「袖色といいます。間もなく世界から亡くなってしまう色ですけれど」
「勿体ない」
私は反射的にそう零した。名前も聞いたことのない、更に言えば見たこともない色だけど、とても美しい色だと感じた。この色を見ていると寂しいような切ないような、それでいて仄かな温かさを感じるのだ。消えてしまうということはもう見ることができなくなってしまうのだろうか。
袖色の花は困ったような笑みを声色に乗せて言う。
「これは色としての寿命ですので。でも最後にお会いできた方に綺麗と言っていただけるとは、色として誇りに思います」
「だったら撮りましょうか、写真」私は首に下げたストラップをちょいと摘む。「いなくなってしまっても、写真ならずっと残りますよ」
「いいえ、色が死ねば例え写真であろうと替わってしまいます。貴女の記憶も」花は寂しそうに、しかし同じだけの嬉しさを含めて言う。「しかし、ええ。是非お願いします。私、写真に撮られるなんて初めてですので。一度被写体になってみたかったんですよ」
撮ったのに消える、というのはよく分からない。消さないように写真に残すのではないか。だが花が喋るのだ、分からないことに関してはあまり考えず、私の知っている常識の中で、私のしたいようにするしかない。私はただ、この綺麗な花を撮りたいだけなのだ。
「では、失礼を」
私は草原にうつ伏せになり、カメラを構える。雑草が服越しでもチクチクと痛い。ファインダーを覗き、ピントをその美しい袖色に合わせた。
シャッターに指を乗せ、いいですかと問う。はい、ああ、そういえば。花が言う。
「最後に、貴女の名前を聞いてもよろしいですか」
「華です。峰原華」
「貴女も花なのですね、素晴らしい出会いです」
その瞬間。私には確かに、ファインダー越しに私へと微笑みかける美しい少女の姿が見えた。
シャッターを切る。キシッという音と共に目の前の空間を切り取ったカメラを持ち上げ、「撮れましたよ」と話しかけると、そこにはただ橙色の可憐な花が一輪、何も言わずに微風に身を揺らせているのみだった。
「あれ、どんな色だったっけ」
「不思議なもんだなあ」
私は滞在している宿、涼風荘のエントランスでソファーに腰掛けながら、先程自室に張った暗幕の中で現像した写真を眺めていた。緑の中に一つの橙がよく映えている。
私は確かに花と会話をして、その色が間もなく死ぬのだと教わった。この橙の花は、元々袖色だったのだ。今ではどんな色だったかも忘れてしまったが。彼女が言っていたように、いつかはその名前も忘れてしまうのだろう。しかし何故か悲しいとは感じなかった。
「綺麗な写真ですね」
後ろから女将に話しかけられる。振り向くと、涼やかな風色の着物に身を包んだ女性が興味津々といった風に私の手元を覗いていた。
「そこの裏で撮ったんですよ、小さな草原があるでしょう」
「こんな綺麗な花があったんですね」ほう、と女将は息を吐いた。「恥ずかしながらあそこは管理し切れておりませんで。勿体ないですね、今度業者さんにでも頼んでお手入れしてもらいましょう」
「それがいいと思います」
きっといい庭になる事だろう。
十数秒の沈黙の後、女将はあの、と言いにくそうに切り出した。
「その、もし宜しければ焼き増しして頂けませんか」
「良いですよ」
私は頷いた。女将はぱあと顔を綻ばせる。
「ありがとうございます、壁に飾っても良いですか」
「嬉しいですけど、こんな写真で良いんですか」
「はい。寂しそうでいて芯の強そうな、とても美しい花だと思います。あそこの壁に飾ったら、きっと映えると思うんです」
エントランスの壁を指差し、素人が何を言っているんだって話ですけれど、と照れ臭そうに笑う。
「じゃあ、後で少し大きめに焼き増ししておきますね」
私はそう言うと、自分の部屋に戻る為に立ち上がる。失礼します、と階段に足をかけると背中に声がかかる。
「お客様は写真家でしたよね」
「見習いではありますが」
「一応、題などがあれば教えてください。写真の下に書きますので」
振り向いて顎を摘まむ。そうか、これは私の作品ということになるのか。それでは彼女にふさわしい題を付けなければならない。
彼女は、あの花は何と言っていたか。でも、それならば。
「『忘れた事を忘れない』、これでお願いします」
私は数回の瞬きの後、そう答えた。
これでいいのだろう。色は私達の目の前で生まれては死に、それを忘れてしまう。だけど忘れた事を忘れなければ。少なくとも私が、例え袖色の事を忘れてしまったとしても、あの不思議な花との出会いと別れを覚え続けていれば。彼女も寂しくはないんじゃないかと思うのだ。
袖色の忘却と、それを捉えた私達の色彩。これはそういうありふれた物語で、世界が続く限り何度も繰り返されるのだろう。
もう一度女将に軽く頭を下げ、私は焼き増し作業のために旅館の階段を上っていった。
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