3.世界の中に
自然と足は彼のもとへ進んでしまった。
今でもたまに、考えることがある。
このとき、彼を見つけずに、家に帰っていたらどうなっていたかな、と。
大体、見ず知らずの男の人が雨に濡れて座っていたらこわいし
いつものわたしなら、見ないふりをしたかもしれない。
でもその日は違った。
もしかしたら、その時が初めて自分から”踏み込もう”とした瞬間だったのかもしれない。
彼がどう思うか、とか
自分がどう思われるか、とか
そんなことが全く頭によぎらないほど、わたしは何も考えていなかったのだ。
わたしが彼のもとへ近づいても、彼はわたしに気付いていないようだった。
雨の音でわたしの足音は消えていたし
なにより、彼の見ている世界に、わたしは存在していなかった。
わたしは立っていて、彼は座っていて。
すっと彼にさした傘は新しく、雨はするすると傘を滑り落ちていく。
どれくらいの時間がたっただろうか。
わたしにとって、彼の世界にいない時間はあまりに長く感じられたが
きっと数字にしてしまえば、数分程度のことだっただろう。
彼ははっとしたように、まず自分に雨が降り注いでいないことに気付き
それからわたしの傘を見上げて、そして。わたしの目を見た。
心臓が、どきどきした。
彼が男の人だったとか
彼の顔が整っていたとか
目の色が日本人のそれとは違っていたとか
肌の色が透き通っていたとか
そんな理由でどきどきしたのではない。
彼の世界に今わたしがいるという
ただそれだけの事実に、心が動かされたのだ。
―――何か言わなきゃ。
そう思うものの、どくどくとうるさい自分の心臓の音ばかり意識してしまって、何の言葉も出てこない。
どうしよう。とその時
?「……濡れているよ」
紫苑「えっ」
彼はひとこと、そう言った。拍子抜けだった。
―――何が、濡れているのだろう?
?「肩が」
自分の肩を見ると、確かに彼に傘を傾けたぶん、そこにはシミが広がっていた。
いや、今言う言葉、それかよ。
と一瞬思ったことは否めない。だって―――
紫苑「あなたのほうが濡れているのに」
思わず笑ってしまった。
入学式のときの笑みとは違う、自然にこぼれた笑みだった。
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