第五十二楽曲 第八節

 結局大和の仕事が終わるまで店に残った古都を連れて大和は裏口を出た。とは言え、事務処理だけなので数十分のことだ。古都は大和と一緒にいることでルンルン気分だ。しかし大和が裏口を施錠した時の鍵の音に混ざって、すぐ傍で土間のコンクリートを踏む足音が聞こえた。


「ん?」


 大和はその音が気になって振り返り、また、古都もその音と、その直後から人の気配を感じたので振り返る。すると途端に2人は硬直した。


「……」

「……」


 大和も古都も言葉が出ない。ほとんど暗い裏口だが、近隣の建物からの光はほんの少し入り込む。そんな微かな光で確保された視野。そこにはなんと男が立っていた。そして硬直した理由、それは……。


「ひっ!」


 古都が上ずった悲鳴を上げる。男の手には刃物が握られていた。その刃物は微かに入り込む近隣の光を反射させていた。しかしかろうじて視野を確保できるくらいの暗さだ。彼が男であることや、風貌、顔の輪郭は掴めるが、顔の中身、ましてや表情はわからない。


「古都、誰だよ? こいつは」


 男から低い声が発せられた。怯える古都は言葉を返すこともできないが、聞き慣れた声ではないことだけは確かだ。もしかしたら聞いたことはあるのかもしれないが、記憶に曖昧という程度なので、面識があるとは言い切れない相手なのかもしれない。

 しかしなぜ刃物を持った男が大和と古都の前に現れるのか、2人はその原因がわからない。ただ、今はとにかく危険であると、それだけは認識する。それが分かった途端、大和は古都を守るように古都の前に立ち、男から古都を隠した。


 男は屋外階段前のスペースを挟んで、裏口の前に立つ大和と対峙する。するとその時だった。


「だからお前はなんなんだよ!」


 耳をつんざくような声量で男が怒鳴った。しかし一度古都を守ることに意識が向いた大和は怯まない。言葉を返すこともないが、真剣な表情で男を見据えた。

 すると暗闇に目が慣れてきた大和に男の顔が認識できるようになる。見覚えがある。それは新幹線の中だ。何度も自分と古都がいる座席の横の通路を往復していた、若そうな小太りの男だ。瞬間、杏里や武村から最近受けた注意喚起が頭を過る。


 大和の肩越しに男を覗いていた古都も気づく。彼は間違いなくダイヤモンドハーレムのファンだ。

 男はツイッターが芸能事務所の公式アカウントになってからフォローもしてくれた。それはドラッグ撲滅フェスの時の募金を趣旨とした握手会の際に、交わした言葉から知った。その握手会で見覚えがあったのだ。ただどのツイッターアカウントかはわからない。

 男はダイヤモンドハーレムの楽曲がドラマタイアップしてから気に掛けるようになったコアなファンである。古都はそれを思い出した。


「ファ、ファンの方ですよね……?」


 恐る恐る古都が声を発した。男と対峙してから大和と古都から出る初めての言葉だ。


「そうだよ。ライブは全国どこでも欠かさず行ってあげたし、フェスの時は募金もしてあげて握手もしたよ。いつも古都のことを見ていたよ」


 ゾクゾクっとしたものが古都の背中を伝う。もう10月下旬で夜中は寒いのに勘弁願いたい。制服姿の古都はブレザーの中で背中に汗を感じた。


「そんな尊いファンの方がなんでそんな物騒なものを持ってるんですか?」

「古都、誰なんだよ? こいつは?」

「誰って、私たちのプロデューサーさんですよ?」

「プロデューサー? なんでそんな奴のところに頻繁に外泊してるんだよ?」


 またもゾクゾクっとしたものが古都の背中を伝う。なぜそれを知っているのか。店への出入りは道路に面した表からだが、大和の部屋への出入りはその反対側の目立たない裏からだ。


「それは……一緒に曲作りをやってるからで、遅くに帰るわけにもいかなくて泊まらせてもらってるんです」

「あああああ!」


 すると発狂する男。彼に対する恐怖が波のように襲って来る。


「僕が散々尽くしてやったのに、なんで! なんでだ! ツイッターだっていつも他の奴にはいいねを押したり、返信をしたりするくせに、僕のコメントには無反応。挙句の果てにはプロデューサーの部屋に泊まってるだと!」


 なんとか男を落ち着かせようと古都は震えながらも答えた。


「疚しいことなんてないですよ」

「そんなわけあるかー!」


 しかし男は発狂を止めず古都の言葉を遮る。


「プレゼントだって送っただろ? 『STEP UP』が話題になった時だって、家まで安全に帰れるように見守っただろ? その時だって男を連れてたから頭きたけど、それも2日だけだったから我慢してたんだぞ!」


 身勝手で恩着せがましい言い分ばかりを発する男に古都は言葉を失う。ただこれで更に理解した。


 確かに『STEP UP』がドラマタイアップして話題になった時、周囲は騒がしくなった。それでジャパニカン芸能が対策を打つ前に、2日間だけ学校の男子生徒にボディーガードをしてもらった。

 2日目こそ全体練習の日だったから団体で動いたものだが、1日目は古都だけジミィ君と末広バンドの裕司と下校をした。ジミィ君に至っては家と当時のアルバイト先まで送ってもらっている。その時誰かにつけられているとは感じていたものだ。それがこの男で、その時に自宅を知られたのだと解せた。


 そして男はプレゼントと言った。これで最近自宅に届いた贈り物の送り主が男であることや、男のツイッターアカウントも判明した。今まで古都のことを見ていて、この晩はとうとうここに顔を出した。つまり男は古都のストーカーである。


 するとここで口を挟んだのは大和だった。彼もまた既に男が古都のストーカーだと認識している。


「泊まってはいるけど、これは創作活動の一環で疚しいことは何もないから安心してください」


 しかし大和が言葉を発したのはマズかった。男は感情を逆撫でされ、ギロッと大和を睨みつける。尤も暗さで視界が悪い場所なのでその表情はわからないが。しかし発狂したことなどから大和はなんとなく読み取れている。


「てめぇ! 僕の古都を、僕の古都を、よくも……!」


 奥歯を噛む音でも一緒に聞こえてきそうな声だった。自分たちに向いている刃先が恐怖を煽る。それに古都は依然怯えているが、大和は毅然とした態度だった。当初狙われているのは古都だと思っていたが、今では自分が標的だと大和は認識していた。


「すいません。ここは私有地なのでお引き取り願えませんか」


 と大和が言った瞬間だった。男が地面を蹴った。大和は古都に危害が及ばないよう、避けることもしなかった。


「大和さん!」


 大和の腰がくの字に折れ、背後にいる古都にぶつかった。大和の背後にいるはずなのに大和越しに男の顔が近い。古都はパニックになった。大和と男の体勢とこの状況から最悪の想像が頭を過る。


「うぅ……」


 すると大和が膝をついた。


「きゃー! 大和さん」


 大和は咄嗟に男の手首を掴んでいたようだが、膝をつく時にその手は離され自身の腹部に移動した。古都は取り乱し、膝をついて大和の肩を抱く。そして狼狽えながらも大和をひっくり返して大和の全身を見た。


「あわわ……、大和さん、血が、血が……」


 大和は苦悶の表情を浮かべ、そして押さえた手の指の隙間から血が染みていた。間違いなく大和は男から腹部を刺されていた。


「はぁ……、はぁ……」


 興奮した様子の男は息遣いが荒い。しかしすぐに厭らしい笑みを浮かべた。


「へっへっへ。邪魔者は消したから、もうこれから古都には僕だけだね」


 既に古都に男の言葉は耳に入っていなかった。目的を達成した男は踵を返し、屋外階段を回りこむと、足早に逃げた。


「大和さん! 大和さん!」


 古都は男が離れたことにも気づかず、取り乱している。大和の顔中から脂汗が浮かび、その表情が痛々しい。


「うっ!」


 すると離れた場所で悶絶を表す声が響いたのだが、古都はそれも気に掛けない。取り乱したまま大和の名前を呼び続けている。


「古都! 古都! どうした!?」


 古都は聞き覚えのあるその野太い声に顔を上げた。するとなんと、大きなシルエットが足早に寄って来て、それは泰雅だとすぐにわかった。


「大和さんが、大和さんが、刺されちゃって……」


 もうこの時の古都は大泣きだ。しかしパニック状態の古都に対して、泰雅はすぐに状況を把握する。これはさすがに素行の悪い客が寄り付くアクアエデンの店長で、場慣れしていて冷静だ。

 泰雅はすぐに救急車を呼び、警察への通報をした。そして古都が抱く大和を覗き込んだ時だった。


「え……、大和さん?」


 目を閉じたままの大和から生気を無くすように苦悶の表情が消えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る