第二十九楽曲 第四節

 休憩中の公園のベンチで足をブラブラさせる児童は、まだ地面に足が届かないようだ。その隣で希がペットボトルの蓋を開けて、そのスポーツドリンクを児童に差し出した。


「飲みかけだけど、飲む?」

「うん! ありがとう!」


 児童は両手でペットボトルを包み、チビチビと飲み始めた。児童の額に滲んだ汗が夏の太陽光を反射させる。


「はい、お姉ちゃんも」

「ありがとう」


 希は返ってきたスポーツドリンクをゴクンと一口飲んだ。喉が渇いているとは思っていなかったが、その潤いが爽快だ。希はペットボトルから口を離すと問い掛けた。


「名前は?」

「圭太だよ」


 ――やっぱりか。


「お姉ちゃんは?」

「希よ」

「のぞみお姉ちゃん」


 その呼び方にどこかグッと込み上げるものがある。希はそれを誤魔化すように正面を向いてペットボトルの蓋を閉めた。


「サッカーが好きなの?」

「うん。パパとママが来年3年生になったら、近くのクラブに通わせてあげるって約束してくれたんだ」

「へー、そうなんだ」


 つまり今は小学2年生。何もかもが事前に仕入れた情報どおりで、希は圭太と自分の関係を確信した。


「けどね、もう1つ格好いいなって思ったことがあるの」

「それは何?」

「えっとね、えっとね……」

「ん?」


 圭太はうまく言葉が出ないようで、希は首を傾げた。


「昨日ママに連れてってもらったんだけど……。えっと……、らいぶはうす? っていうところに」


 ドクンと希の心臓が跳ねた。まさか、圭太も来ていたとは。間違いなく自分がステージに立ったライブのことだ。確かに彼の母親はホールの後方に立っていた。背の低い圭太とドラムの椅子に座っている希がライブハウスの人ごみの中、お互いを認識することはなかった。


「ライブハウスって言うことは、バンドを観たの?」

「そう! バンド!」


 喉につっかえた骨が取れたように圭太の表情がパッと明るくなる。そして少し興奮気味に話すのだ。


「そこでね、3人のお姉ちゃんが楽器を弾いて歌ってた」

「そっか」


 ダイヤモンドハーレムは4人組カルテット。希は自分だけ認識されていないことに安堵と、どこか少しばかり寂しさを感じた。


「ぎたー? って言うの? 格好いいよね。お姉ちゃんたちみんな美人だったし」

「むむ。でも圭太は男の子だから、美人のギタリストにはなれないじゃない?」


 他のメンバーだけが褒められて少し悔しい希は捻くれた言葉を返す。とりあえずベースもまとめてギターと言ったことは流しておく。


「いいの! 格好いいと思ったんだから」

「そう」


 ただそれでも小学2年生の圭太が騒がしいライブハウスに来て恐怖を感じなかったのは良かった。むしろ前向きな感想なので嬉しくもある。


「ところで、なんでママはライブハウスに行こうと思ったの?」

「さぁ? お出掛けするって言って僕はついてっただけだよ」

「ふーん。ママは音楽が好きなの?」

「うん。よくテレビで見てる」

「一昨日も?」

「見てた、見てた」

「大晦日も?」

「うん! 見てる。お姉ちゃん、何でも知ってるんだね。魔法使い?」

「ふふ。そうかもね」


 笑って遠くを見つめる希だが、そんなことを言っておいてちょっと意外である。希の知る圭太の母親はロックなどハードな音楽を聴かない。主にJポップを聴く。だからライブハウスに来たことに心底驚いた。と言っても数少ない彼女との記憶による根拠だが。


「ねぇ、ねぇ。何でも知ってる魔法使いの希お姉ちゃん」

「何よ? その長い呼び名は」


 おかしくなって希から思わず笑みが零れる。圭太はニカッと笑っていた。


「一緒にサッカーしよう?」

「むむ」


 マズい。希はサッカーを小中学校の体育の授業でしかやったことがない。その際はいつもボールを避けて気配を消していたものだ。中途半端な知識をひけらかしたことに内心嘆く。


「ねぇ、ダメ?」


 甘えるように希の腕を振る圭太。彼の母親に、こうして甘えた時代が自分にもあったなと思い出す。異父兄弟の弟に縋られて、自身の生みの親である圭太の母との思い出を。


 希は自身の身なりを見てみた。ブラウスにひざ丈スカート。足元は踵の低いローファーだ。ハイヒールでないことは幸いだが、こんな格好でボールが蹴られるものだろうか。


「ねぇ、希お姉ちゃん。一緒にサッカーやろうよ?」

「むむ。わかったわ」


 断れなかった。希は承諾すると立ち上がった。


「じゃぁ、ボールを取ったら攻撃と守備が交代ね」

「わかったわ」


 シュート板をゴールにして圭太と1対1を始めた希。まずは圭太が攻撃のようだ。


「いくよー」


 そう言ってドリブルで突っかかって来た圭太。しかしそのドリブルは体からボールが遠く拙い。希は難なくボールに到達した。


 しかし。


「きゃっ!」


 希からは珍しく乙女な悲鳴が上がった。ボールを掻っ攫おうとした希はなんと、ボールを踏んでしまったのだ。希の視界には札幌の青空が広がる。地面が背後にある。


 ドンッ。


 そして希は背中から地面に落ちた。


「あはははは。希お姉ちゃん、下手っぴ」

「むむ」


 背中が痛むがとりあえず大したことはない。希は立ち上がると腰を屈めてスカートの砂を掃った。その時、圭太が背中の砂を掃ってくれた。すると圭太が言うのだ。


「希お姉ちゃん、大きいパンツ穿いてるんだね?」


 スカートの中をしっかり圭太に見られていたようだ。希は悔しくなって顔を赤くする。


「しょうがないでしょ――」


 希はこの後に続く「生理なんだから」という言葉を呑み込んだ。当たり前だ。男子児童にそんなことを言うものではない。当然知識も及んでいない。


「笑ってごめんね、痛かったよね?」


 しかし先ほどは腹を抱えて笑っていた圭太だが、砂を掃い終えると心配そうに希の顔を覗き込む。そんな心配は最初に見せてほしかったと思う希だが、冷静に答えた。


「大丈夫よ」

「良かった。やろう?」

「いいわよ」


 それから小一時間、希は圭太とボールを蹴った。一体何をしにここまで来たのか、最初に抱いていた感情はどこかに行ってしまった希。思いの外圭太との時間を楽しんでいた。


 やがて公園に設置された時計の針は正午に差し掛かる。希は最初に圭太が家から出てきた時の会話を思い出す。


「もうお昼だけど、帰らなくて大丈夫?」

「あ! ママに怒られる」


 そそくさとボールを抱えた圭太。砂で汚れた足元を気にする素振りもなく希を見上げた。


「お姉ちゃんも帰る?」

「うん。そうする」

「じゃぁ、僕ん家すぐそこだから、そこまで一緒に帰ろう?」


 それには迷いが湧く希。考えなくここまで来たとは言え、最初の時と感情が変わっている。万が一、生みの親と出くわしたらと思うと面倒だ。


「はい」


 しかし圭太は希の感情を知る由もなく、手を差し出した。反対の腕はサッカーボールを脇で抱えている。その無垢な圭太に希の抵抗の気持ちはどこか消化され、素直に圭太の手を握った。


「お姉ちゃん、またサッカーやろうね?」

「そうね。できるといいわね」

「もっとお姉ちゃんも上手になってね」

「むむ」

「今日は僕の全勝」

「生意気な」


 公園を出て生活道路を歩く希と圭太。柔らかく吹く風が2人の繋いだ手を撫でる。


「いつかセッションもできるといいわね」

「ん? せっしょん?」

「ふふ。今はまだわからなくていいわ。頭の片隅に置いといてくれれば」


 首を傾げる圭太に構わずクスクス笑う希。圭太が少しでも憧れた音楽を、本当に彼がいつかやる日がきたらいいなと思う。そして一緒に1曲できたら素敵だと思った。


「この先3回、大晦日の歌番組は注意して見ておいて」


 やがて到着した圭太の家の前で、希は圭太の手を握ったまま屈んで言う。


「なんで?」

「なんでって言うか、そうママに伝えておいてもらえるかな?」

「んー、わかった」


 よくわかってはいないが圭太は明るい表情を見せた。そして満面の笑みで「またね」と言って希に手を振ると玄関に消えた。

 希は振り終った手を物寂し気に下ろすと、来た道を引き返した。


 圭太が家に入ると、圭太を呼びに行こうとしていた母親と玄関で出くわす。そして玄関でそのまま少し立ち話をして、圭太が「希お姉ちゃん」と一緒に遊んでいた旨を話した。途端に玄関ドアを開けて道路まで駆けだした母親。右に左に首を振ると、小さな女子高生の背中が見えた。しかし彼女は角を折れ、すぐに視界から消えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る