14

 ちょうどそのとき、彼女の背後で続々と人が立ち上がった。タイミングよく三組ほどの団体客が食べ終わったらしい。十人以上が席を空け、一気にそこだけ視界が拓ける。先程まで人の頭しか見えなかったのが、店の面している通りまで見渡すことができるようになっていた。そう思ってからまもなく、視線のまっすぐ先にいる人物に気がついて、たまらずハッと息が漏れ出た。


 まさかそんな。同じ国に住んでいるからといって、こんなことが起こってもいいものなのか。


 二人席に対面に座りながら、何かをいい合って笑っている大学生くらいの男女。白いブラウスと黒いシャツという対照的な出で立ちの二人の顔は、通りから差す昼の光でホワイトアウトしそうなほど輝いていてはっきりとしない。


 本当に彼らなら、今年で二十三になる。彼ら二人のことを見間違うはずはないという心の声と、そんなことが起こる可能性がどれほど低いかという理性の声に掻きむしられる。急速にあたりの音が聞こえなくなっていく。


 不意に青年の横顔がこちらを向いた。深い黒、それでいて日の光を浴びるとやわらかなブラウンに輝く髪の輪郭と瞳に焦点が合い、ああ、と声にならないため息が出た。ほんの一瞬、視線が絡み合うような気がした。


 再び正面を向いた彼が、すっかり大人びた女性に何かを告げている。声も届かないほど遠いのに、その唇がなんといっているのかがよく見えた。


 グウェン、飲み物買ってきてよ。


 肩に届かないあたりで豊かな黒髪を揺らしながら、もー、と女性は顔をしかめた。そんなの自分で行きなよーといいつつも彼女は席を立ち上がる。拍子に濃いブルーのロングスカートの裾がひらりと広がった。ほとんど同時に彼も腰を上げる。


「どうしたのあなた」

「ああ、いや」


 いぶかしげに聞いてくる婚約者の声で我に返った。思い出したように彼女に視線を戻すと、不安げな顔でこちらを覗き込んでいた。


「すまない、身重の君に頼むのはあれなんだが」

「なに?」

「水をもらってきてくれないか。少し喉が乾いて」


 途端にフィアンセは呆れたような表情になったが、特に文句をいうこともなく従ってくれた。その向こうから、躊躇いのない足取りで彼がこちらにやってこようとしている。


 直接会えないまま旅立ちを見送って十年になった。迷うことなく近づいてくる青年だったが、彼のほうこそこちらを覚えているかどうか危うい。そのまま横を通り過ぎられるのではないかと息を詰めていると、彼はあっさりと目の前まで来て、つい先程までフィアンセがいた席に当然のように腰かけて口の端を上げた。


「話しかけても?」


 あの頃よりも低くなった声。反面、きらきらと輝く瞳には悪戯っ子のような光が宿っている。


「こんな、ことが」

「さあ、現実にこうして会ってるんだからそういうこともあるんじゃないの?」


 知らないけど、といって青年はくつくつと可笑しそうに喉を鳴らしている。ずいぶんと背が伸び、華奢だった身体は、細身ながら成人した男性のものになっていた。


「おまえ、大きくなったな」

「そりゃ、十年だもん」


 表情がくるくるとよく動く。あの底知れないところのあった少年期とはすっかり様子が違っていた。同年代の子供たちからいい刺激を受けた青春時代を過ごしたのかもしれない。


「まだ歌はやっているのか」

「うん。大学も声楽科だったから。ついこないだ卒業試験をパスして、今は休暇中。といっても春から全国ツアーだからタイトに練習が挟まってるけど」

「全国ツアー……?」

「ほとんどうちの卒業生のOBで構成された合唱団があるんだ。俺は今年から入団したんだけど、ソロパートあるから練習ぴりぴりしててさ」

「はあ……」


 彼が変わらずに歌の道を歩んでいるらしいことがなによりうれしくて話を促していると、どうやら合唱団に数人しかいないソリストのひとりになったらしい。思わず半目になる。成人してもなお、神童ぶりは衰えることなく顕在らしかった。


 ふと、前髪のあいだからのぞく深淵の瞳がまたたく。


「あんたに会えなくてずっと寂しかった」


 若く、きらきらと輝く彼からそっと目を伏せる。そんなことを面と向かっていってのけるところも相変わらずで、見た目も表情の見せかたもすっかり変化してしまったくせに、本質は何一つとしてあの頃のままなのだと知らされた。


「俺は、相変わらずきな臭い生き方をしている」

「ふうん」

「あのときおまえを巻き込んだ暴力の中に、今でも身を置いている」

「そうなんだ」


 あっさりと頷いて、青年は屈託なく笑った。


「でもおっさん、もうそんなに若くないんだから、無茶はするなよ。俺、あんたにはちゃんと長生きしてほしいんだ」


 そう瞳をやわらかく細めた青年に、ああ、と思う。いとも簡単に、セピアに褪せていた景色のひとつひとつが色彩を取り戻す。


「あ、グウェンが呼んでる」


 パッと後ろを振り返ると、近づいてきたときと同じくあっけなく青年は席を立った。最後にもう一度目が合い、バイ、と青年が笑って手を振る。


「それじゃまた、会いたくなったら会いに来るよ」


 その言い草につられてこっちまで笑ってしまった。


「なんつー反則なもの言いだよ」


 駆け出してグウェンと合流した青年の背中を、テーブルに頬杖をつきながら眺める。


 もう二度と会わないと決めていたのに。この十年間、教会には一度も行かなかったし、彼の通う学校を調べもしなかった。焦がれても諦め、心がこれ以上彼に惹かれてしまわないよう婚約者との付き合いかたも見直して過ごしてきたというのに。まったく。


 彼が望めば、彼はいつだって俺を見つけ出すのだ。こちらが会いに行かなくても勝手に。それならもう、意地を張り通す必要もないのだろう。


「またいつか、近いうちにな、ミカ」


 その身を祝福された彼はいつだって幸福をまとっている。その幸福の中に、躊躇うことなく連れていってくれる。久々にその歌声を聞きたい。


 戻ってきたフィアンセを迎えながら、あいつのコンサートの日程を調べなければなと考えていた。

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Angelic Boy 祈岡青 @butter_knife4

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