少年信仰

 暗闇の中を泳ぐような人生だった。ぼんやりと鮮やかな晴れの青空を眺める。昼の光は明るく、道ですれ違う人々はだれもかれもが笑っている、そのすべてが向こう側にある。


 信仰なんてあったところで救いにも食べものにもならない、けれど、君の声が神をたたえ、世界は美しいと微笑むとき、世界は耳の奥にまで届く。引き戻され、この世に繋ぎ止められる。


 俺のために歌ってくれ、天使。日の光に照らされて、輝く少年に願う。



 十日後に旅立つという少年に何か贈ってやりたいと思い、ふと文房具屋に立ち寄った。学生に持たせて様になるような物がいいと思った。


「万年筆が見たい。近場で停めてくれ」


 晴れた空の明るさが射し込む教室の窓際。風に吹かれながら、少年が制服を着てペンを握る。彼が静かな眼差しで楽譜を書く姿を想像し、我ながら良い案を思いついたなと満足だった。


 壁一面のガラスケースの中から、店員が恭しく取り出した黒一色の武骨なペンに首を振る。


「記念の贈り物なんだ。もう少しデザイン性の高いものを、ああ、だがあまり派手すぎず、普段使いできるようなものがいい。当然、機能性は十分に備わっているものがいいが、かといって高すぎるものもあまりよくない」

「一息でよくもまあずらずらと注文しますね……店員の方、苦笑いしてますよ」


 運転手役に連れてきたクラウスが、一歩下がった後ろで呆れた声を出した。


「注文が多いほうが向こうもピックアップしやすいだろう?」


 肩をすくめながら振り向くと、「上機嫌ですね」とあきらめたようにクラウスは笑っていた。


「あの少年にあげるんですか」


 笑いながら何気なくそういわれた途端、表情筋に力が入らなくなった。ゆるんだ口元、細められた目、部下の作り出す表情のすべてが作為的に映る。


「なんで、おまえが、そのことを」


 組織のだれにも少年のことは話していないし、いつも教会に行くときは少し距離のあるところで車を降り、一人で歩いていった。そのルートも頻繁に変えていたのに。


 三つ歳上の部下は腕を組み、小さくため息をついた。瞳が伏せられる。


「いくら辿る行程を変えても、行き着く先がひとつなら、割り出すことは存外簡単ですよ」

「俺を、こっそりつけたのか」

「そんな必要もありませんでしたよ。ヤンを失った日、あなたは今にも死にそうで危うくて、その背中を追いかけていったら、土砂降りの中をまっすぐ教会へと向かっていったんです」


 再びこちらを見たクラウスの視線は射抜くほどに強く、たまらず背を向けてショーケース中のペンたちに目をやる。


「そんなに入れ込んでは、あなたの大きな弱点になります。失ったとき、奪われたとき、今度こそ耐えられなくなりますよ」


 非難されているのだろう。若者を失ったショックで、ふらふらと秘密の場所までまっすぐに向かってしまうような危うさを、見ていられないとたしなめられている。ヤンでそうだったなら、あの少年ではどうなるのかと問われている。


「大丈夫だ。こうちょくちょく会えるのもあと少しだから」


 色とりどりのペンたちを眺めながら答える。


「遠い寄宿学校へ行くそうだ。それで、勉強用の道具を何かひとつ贈ってやりたかった」


 そしてできれば、長く、常に彼のそばに在りつづけられるものを。


 はあ、と後ろでクラウスが大きく肩を下げたのだろうことが伝わってくる。


「万年筆ってのは、いいチョイスだと思います」

「うん」

「少し、寂しくなるんじゃないですか」

「ああ」


 隣に並び立ったクラウスの表情は穏やかなものになっていた。


「これなんかどうです?」

「黄色か……男の子にはちょっと派手すぎやしないか」


 ああでもない、こうでもないとさんざん唸った結果、赤と黒のバイカラーが鮮やかな金軸のペンを買った。


 もう場所を知られているのならと、クラウスに直接教会のそばまで送り届けさせると、通い慣れたはずの玄関口はどことなく違和感を纏っていた。花壇に植えられた花はのどかに風に吹かれているが、どことなく踏み荒らされたような、荒々しい空気が残っているように思えた。


 足早に近づいて扉を開くと、教会の修道女と子供たちが真ん中あたりに身を寄せ合うようにして集まっていた。全員が怯えながら震え、泣いて、顔を手で覆っている。そこにあの少年の姿はない。


「ミカ」


 どこにも見当たらない。


「シスター!」


 カーペットのうえにへたり込んでいた修道女のひとりがふらふらと顔を上げた。すっかり見知った老齢の修道女の頬には、赤黒い痣があった。だれかに拳で殴り付けられたような大きさだ。


「シスター、ミカは」


 老女の濁った瞳から、水滴がこぼれ落ちる。


「あの子! あの子が! 拐われてしまったのです! 屈強な男たちが何人もやってきて、あの子の、あの子のお腹を殴って気絶させて、連れ去ってしまった!」


 叫びながら老女は顔を手で覆った。指先が赤黒く腫れた頬に食い込んでいく。喉を切り裂くような絶望の叫び。


「人拐いなんて! ここの子供が狙われるなんて! こんな不幸はこの教会に来てから初めてのことです!」


 世界が急速に遠退いていく。シスターの泣き声が向こう側で聞こえている。現実が霞んでいく。


「ヴィルフリート!」


 気がつけば教会の外でクラウスに抱き止められていた。足がもつれて、地表までのわずかな階段から転げ落ちそうになったところを間一髪で助けられたのだと、遅れて脳が認識する。


「あの子が拐われた」


 それだけで通じたらしく、クラウスは目を見開いたあと、厳しい顔つきでひとつ頷いた。


「人身売買と臓器売買ならどちらの可能性のほうが高そうですか」

「前者だ。他の子供たちには手を出されていないそうだ。ミカだけを、狙っていった」

「人身売買なら得意なブローカーをすぐに絞り込めますよ」


 だから帰りましょう。そういわれて、あやふやになっていく感覚の中で、思考だけが冴えざえと戻ってくる。


「少年そのものが目的なら命の心配はしなくてよさそうだな」


 自分でも驚くほどの、乱れのない、いつも通りの口調になっていた。


「このご時世に孤児を拐って売ろうなんてのは、簡単に行かないからな。すぐにケリがつきそうだ」


 車に乗り込みながら、数字の話をするかのように彼のことを語ると、その存在までもがもやの向こう側へと行ってしまったかのようだった。

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