背中に軽い痛みが走り、まぶたを上げる。だんだんと開いていく視界いっぱいに、天井に描かれた宗教画が広がった。


 約束の地。死んだあと、人は神に救われて美しい楽園にたどり着くのだという。目覚めて一発目の景色がそれで、思わず鼻で笑ってしまった。


「あ、起きた」


 頭の方から声がしたので身をよじると、肘掛けのうえに腰を下ろした例の彼がいた。自分がシャツ一枚でベッドではなく椅子の上に寝かされているということに、それでようやく気がついた。道理で背中が痛むはずだ。


「シスター、気がついたみたい」

「あら、よかったわねえミカ。先生呼んでらっしゃい」

「うん」


 少年が立ち上がるのと入れ替わりに、年配の修道女が視界に現れる。真っ白な髪に、シワだらけの顔はにこにこと破顔していて、いかにも人が良さそうだった。


「よかったわ旅芸人さん。ナイフ技に失敗してお腹を切り裂いちゃったって本当? 危ないわねえ」

「……これが仕事なもので」


 なんだそのまぬけな設定は、と喉元まで出てきそうだったが、騙されてくれているらしいので、寸でのところでこらえた。仕事上の怪我なのがあながち間違いではないあたり、妙に悔しい。


 気怠い身体をゆっくりと起こすと、はだけたシャツのあいだから、腹に巻かれた白い包帯が見えた。まだ少し痛むが処置は無事に済まされているらしい。そこから脱がされていた上着類が雑然と背もたれにかけられているのが目に入る。


「ああ、先生!」


 ため息を吐きかけたところで、少年と、これまた人のよさそうなまるまるとした恰幅の良い医師が連れ立ってやってきた。


「うーん、切り傷というより銃創な気がしなくもないが、まあ教会は困っている人間を拒めないでな」

「……どうも」


 だれかが困っている限り、深追いせずに救いの手を差しのべるというのがここの流儀らしい。


「おい、だれがナイフ技に失敗した旅芸人だ」


 医師も去っていったところで、流れるように人の隣に腰を下ろしてきた少年に問いただす。


「どこにブランドスーツ一式で全身を固めた旅芸人がいる」

「それくらいしかシスターに出血の理由をうまく説明できなかったから」


 しれっと悪びれることもなく肩をすくめてみせる彼に、心を込めて「馬鹿野郎」といっておいた。


「ああ、それにしても、俺はどれくらい寝てた?」

「半日くらいかな。日付は変わってないよ?」

「そうか」


 改めてゆっくりと、連れてこられた教会の中を見回す。両側の大きく立派なステンドグラスからは夕暮れの光が溢れ落ちていた。前方中央にある聖女像はくすみなく白く、内装も壊れておらず綺麗なまま、礼拝の席は十二分にある広い教会だった。それなのに訪れている人間は見当たらない。数人のシスターと、なぜか十歳前後の子供たちがちらほらいるばかりだ。


 つむじの見える少年の頭を見下ろす。ほとんど黒に近いブラウンの猫っ毛が印象深い。ここまで濃い色合いを持つ人間は、この国にはそうそういないだろう。ぱちぱちとときどき瞬きをする同じ色の瞳に、感情らしいものは見えない。優しさや救いといったものを特別彼から感じるということはない。


「おまえ、なんで俺のことを助けた」

「教会の人間だから、慈悲深く有ろうと思って」

「……嘘つけ」


 思わず半目になりそうなほどの見え透いた嘘だ。さっきのシスターや医師のようなタイプの人間がそういうのなら説得力があるが、この不遜な態度の少年に限ってそれはないだろう。


「おい、本当の理由はなんだよ、おい」

「……別にたいした理由じゃない」


 気になってそっぽを向く少年の肩を何度か軽くどついていると、不機嫌な声音とともに、不意に暗い色をした瞳が真っ直ぐこちらを見つめた。


「あんたのブルーグレーの瞳がきれいだったから」


 それだけいってじっと見上げてくる深淵の暗闇に似た色は、ただきらきらと輝いていた。そこに宿るものが善なのか悪なのか判断がつかない。


「スーツを着た色男が、暗がりで腹からどくどく血を流しながら、しーって微笑んでいるのになんだか惹かれたんだ。笑ってるのに、目が暗くて、深く沈んでいて、きれいだった」


 少年の手のひらが軽く頬に触れた。目元に指先がかかる。それはすぐに離れたが、触れた部分に人肌の温度を残したまま、少年は腰を上げた。


 咄嗟のことで身体が動かなかった。少年が聖女の像に向かっていくのを、特に何かリアクションをすることもできずに見送る。


「あれは」

「あの子はミカといいます」


 後ろを振り向くと、先程の年配のシスターが静かに佇んでいた。


「ミカ」

「ええ。天使の子ですよ」


 そう嬉しげに微笑むシスターに、ああ、と思った。天使の子、つまりは親のわからない子供。彼を含むここにいる子供たちは全員、教会で面倒を見ている孤児か。


 そびえ立つ聖女像の足下にグランドピアノがあり、彼と同じ年頃の少女がそこに座っていた。そのピアノも大きな立派なものだったが、それでいてここに人があまり寄りついていないのは、孤児たちの存在かもしれない。


 肩に届いたあたりで切り揃えられた少女の髪もまた色濃く、くるくると猫っ毛で、しかしちらりと見えた瞳は深い緑色をしていた。ミカに向かって少女が楽しそうに笑いかける。彼もまた淡く微笑み返して、少女に一番近い椅子に座った。


 ピアノの音色が流れ始める。国民のだれもが知っている夏の民謡だった。ひと夏の小さな恋の物語。美しいメロディーラインで大人にも子供にも人気が高く、自分でも口ずさめるほどポピュラーなそれ。


 天使の子などと、綺麗な言葉にくるまれて、孤独な子供たちが歌い出す。


 瞬く瞳に宿るものは見えず、ほとんど動かない表情は無機質で、年のわりに子供っぽく情緒の感じられない言葉遣い。親のいない彼は、知能に問題があるか、あるいはよほどのトラウマを抱えているのではないかと思う。


 そんな少年の身体が思いきり息を吸いこみ、瞳を閉じ、大きく口を開く。流れ出た音色に耳を疑った。


 やわらかな歌い出しとともに、変声期を無事に終えて安定した少年の声が自由に伸びやかに広がっていく。高く上がるサビを難なく歌い切り、繊細な高音が空中にとけていった。


 唖然としている後ろで、シスターがにこにこと笑っているのがわかった。うちの子はすごいでしょうという彼女の心の声をひしひしと感じる。


「天使の子っていうのは、ああくそ、単なる暗喩じゃなくて」


 思わず首を横に振っていた。あんな情緒もへったくれもなさそうな少年がこんなにも豊かな歌声でうたうというのだから、まったくもって笑ってしまうほど、世の中ってものは反則だらけだ。

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