恵みの歌
3
高い位置にある窓から降る昼の明るさは、地面に届く頃にはすっかり弱々しくなっていた。そのせいで廊下は薄暗い。
月に一度の定例会が行われる建物は由緒あるものらしいが、そんなふうに造りがあまく少し陰気で、会合もどこか葬儀のような空気を纏っていた。上座に位置した老齢のボスの左右に、黒いスーツに身を包んだ男たちが連なる。皆一様に目を伏せ、どこか俯きがちに立っている。集会の最中は無限のように思われる静寂に支配される。
解放されてもなお儀式的な雰囲気が尾を引き、どことなく陰鬱な気分が抜けないまま部下たちと廊下を抜けて帰路につこうとしていると、向こう側から自分たちと同じように連れ立った一行がやってきた。先頭の男は知った顔だった。
お互いに軽く会釈をして去るだろう。そう思っていたところに、不意に「生きてたんだな。残念だ」と、すれ違いざま話しかけられた。
色素の薄い、酷薄そうな顔と目が合った。ほとんど白に近い金髪、引き伸ばされたような水色をした両の瞳。頭ひとつ分下の、かすかにつり上がっている口元をおもむろに見下ろす。
「レオンハルト」
そう名を呼べば、見開かれた瞳孔が「ヴィルフリート」と呼び返した。
この男とは年が同じせいで、上の者たちから勝手にライバルだの宿敵だのと煽られ、争い合わされている仲だった。当然お互いの印象はよくない。
それでもその思わせ振りな態度には信じがたい気分だった。身内殺しは組織の最大の禁忌である。普段は憎み合っている相手でも、腐っても同じ組織の人間だ。一瞬思考がフリーズするほどの衝撃だった。だが、固まる頭とは反対に、身体は染みついた生き方に従って動く。
「ああ、俺の腹を撃った狙撃手はよほど使えない主についているらしい。部下を見れば上の資質もわかる。ターゲットを一発で仕留めきれずに乱射するバカも、バカを寄越した大バカも、さっさとコンクリ詰めになったほうがいいと思わないか?」
大げさに肩をすくめてみせ、口からはかろやかに言葉が漏れる。
「……ふざけた野郎め」
薄ら笑いをやめたレオンハルトの、地を這うような呪いの声にも鼻で笑ってやった。その途端、やつの後ろにいた連中が銃を引き抜いたのを、目でゆっくりと、なぞるように追いかける。かすかに口を開けて何かいいたげにしているレオンハルトも、ちらりとこちらの後方に視線を走らせた。部下の一人の腕が、真っ直ぐとレオンハルトに銃口を向けているのが視界の端に映っている。
しばらくにらみ合ったが、組織の建造物内で銃撃戦は洒落にならないという見解だけは一致していたようだ。とはいえ、レオンハルト一行の背中を見送りながら、大きなため息をついていた。競争心が巡りめぐってこれほど直接的な殺意になるとは。
車に乗り込んでもなお険しい顔をしていたせいか、同乗した部下の一人が「コーヒーでも飲みましょうか」といって車を止めさせた。近くにテイクアウトできるところがあるので、と笑みを浮かべて降りていった部下はじつのところ三つ年上で、正装姿で暑い中を走らせてしまったことに再度憂鬱なため息が出そうになった。
「はい。とりあえず今日のところは冷たいコーヒーでも飲んで、クールダウンしてから帰りましょう、我らがボス」
「悪いな、クラウス」
「いえいえ」
太陽の光を受けて、透明なカップから明るいブラウンがこぼれている。車窓のあいだから手を伸ばしてそれを受け取り、車内に引き入れると、ブラックコーヒーは途端に深淵を思わせる色になった。どことなく、あの少年を思わせる、などと思う。
「はい、トーマスもブラックで、ヤンはカフェオレだろ?」
「わざわざ俺らの分まで……ありがとうございますクラウスさん。ところでヤン、まだ牛乳を入れてるのか」
「なんですトーマスさん、喧嘩売ってるんですか? 買いますよ?」
「こらこら二人とも。ヤンももう二十代の仲間入りなんだし、先輩にそう突っかかるな。シュガーは二つでよかった?」
「あ、そうです! さすがクラウスさん、なんでも把握されてますね」
「年ばっか無駄に取りやがって、舌はまだまだ十代のがきんちょだなあ」
賑やかな車中のやりとりに混じって、ふと、記憶の彼方からやわらかな歌声が聞こえた。だんだんと大きくなってくるようなそれに、思わず目を閉じた。あの、ちっとも可愛いげのない少年から発せられる、信じられないような広がりを持つ音色。それをもう一度聞いてみたいという、抗いがたい誘惑にかられる。
「寄りたいところがある。適当なところでいいから降ろしてくれ」
そういうと三人の声は一斉に途絶えた。ヤンとトーマスは先程までぎゃんぎゃんと言い合っていたくせに、戸惑った顔を仲良く見合わせている。少しだけ笑える。
しばし待ってみたが三人ともこれといった反応もせずに固まっているので、かまわず上着と帽子を脱いでネクタイを抜き取った。
「ちょっと、なにしてるんですか」
唯一後部座席に一緒に座るヤンがようやく声をあげたが、特に答えてやるようなことでもなかったので、カフスを取り、袖を一気に肘上まで捲りあげる。
「ちょっとちょっと! どうしたっていうんですか、いつも身なりだけはきちんとしろってうるさいのに!」
固めていた髪を指で無造作にほぐし、いい感じに前髪が降りてきたかと思ったところでようやくヤンを見やると、この世の終わりに遭遇したかのような顔をしていた。
「なんだよ、ほら、いい感じにくたびれて色男だろ?」
おどけたように両手を広げてみせたが、ぽかんと口を開けたまま微動だにしない。やれやれ。
「単なる変装というかカモフラージュだ。おまえですらそうなら、敵にもかなり気付かれにくいだろうな」
「変装って、どこへ行くつもりなんですか。こないだ撃たれたばっかなのに。まさか、女ですか?」
いちいち訂正するのも面倒なので「そうだ。今ちょっと執心している天使がいてね」と頷いたら頷いたで「でも、婚約者いるじゃないですか……」といよいよ本気で絶望した表情になった部下に、今度はこっちが途方に暮れる羽目になった。
しばらくかける言葉を失ったあと、ちょうど近くにあったハットをヤンの顔に押し付けると「うぶっ」とカエルが潰れたような声がした。そのまま車外に出る。
「待ってください!」
ドアを閉めたところで、前の車窓からトーマスが身を乗り出した。
「本当に一人で行かれるんですか」
思った以上に真剣な面持ちで問われた。まあ、無理もないのかもしれない。なにせ脇腹を銃弾で抉られた日も、この三人を連れていた。
なんとはなしに煙草くらい自分で買うと車を降りてから二日間、彼らとは音信不通になった。
「ヤンのバカは貴方が帰ってこなかった日の夜、俺たちが羽交い締めにして止めるまで貴方を探していました。俺らもだれひとり生きた心地がしませんでした」
そんなふうにつらそうな顔をされると少ない良心が痛むのだが、後続にもう一台部下を乗せた車両もあることだし、ぞろぞろと黒スーツの大人数で教会に乗り込むのは嫌だった。
それに、あそこであの少年の歌を聞くと、どこか自分が無防備になる気がする。その状態をだれにも見られたくはなかった。
「悪いな」
自分がそういえば、結局のところ部下は頷くしかないとわかっていた。案の定、トーマスは苦虫を噛み潰したような顔をして押し黙った。
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