アスターの揺れる森で
白洲 夏瀬
序章
「誰もが自身の人生という物語の主人公だ。けれども、それらが物語として語られる事なんて、殆どありはしない」
紫苑の花が咲き乱れる季節に、森の湖の畔を歩きながらあの人は僕にそう言った。
「……そうですね。誰しもが英雄譚の様に、劇的に生きられる訳じゃありませんから」
頷いて同意を返した僕に、あの人は少し寂しげに笑っていた。
「私は、劇的な人生なんて送りたくないよ。英雄なんて、真っ平ごめんだ。それでもね、そんな名もない人生を、物語を紡いでいった事を、誇りに思っていたりもするんだ」
そう言ったあの人の表情はとても穏やかで、満ち足りたものだった。
けれど、そんな言葉を交わしたあの人は、死んだ。
あの人が好きだった紫苑の花の姿が見えなくなって、真っ白な雪が降り始めた、そんな季節に死んでしまった。
僕を救ってくれた、優しい人だった。魂の芯から滲み出るような、そんな美しさを持つ人だった。何処か僕と似た寂しさを持つ人だった。そして何より、悲しい人だった。
これは、僕が死ぬまでに書き記してゆく事になる記憶達の、一番最初のそれになるだろう。
僕と、あの人と、それから幾つかの人々の記憶の話だ。
誰にも忘れられないように。世界から忘れ去られる事のないように。何よりも、僕自身が忘れたくないから。
イゼナ、それが死んだ彼女の、僕を救った彼女の名前だった。
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