第25話 ハルトの記憶
絶句したわたしを見て、ハルトはため息をつく。
「君は誰かって聞いているんだよ。言葉は通じているよね?」
ハルトは堅い声でわたしに問いかける。
演技なのかな、と疑ったけど、今の状態でそんなことをする意味はない。
「……あの、婚約者のアリスです。覚えてませんか?」
「俺に婚約者なんかいない。そういう嘘をついて言いよってくる女なのか?」
冷たい目でわたしを見返すハルト。
さっきのデートのときの優しげな目とは全然違う様子に、わたしは言葉を失った。
「アリス、レオンハルト様は大丈夫――――」
わたしはいつの間にか目にいっぱい涙をためていた。
耐えきれなくなって、アルニエに抱きつく。
「ど、どうしたの? アリス? レオンハルト様?」
「……ああ、アルニエか。この娘はいったい誰なんだ? それに、寝ている暇はない。早く魔王を倒さないと」
困惑している様子のアルニエ。
わたしは人が変わったようなハルトを見ていなくて、アルニエの胸に顔を埋める。
「レオンハルト様、魔王はもう貴方が倒して、平和な世界になっています。覚えていませんか?」
そのアルニエの言葉に、ハルトは無反応だった。
わたしはアルニエから離れハルトのほうに向き直ると、ハルトは天井のあたりをぼーっと見つめていた。
「俺、記憶がおかしなことになっている……のか? 覚えているのは君とブルーノとで冒険しているという認識しかない」
ハルトの身体は衰弱しているようで、声にも力がなかった。
「……ブルーノはどこにいる?」
「レオンハルト様が『元の世界』と言われる場所にブルーノはいます。レオンハルト様が術を使わない限り、ブルーノはこちらの世界へ戻ってこれません」
「そんな術を俺が使えるのか? どうやったら……」
ひょっとしてハルトは魔王を倒すまえの記憶に戻ってしまった?
そして、転移で行き来できることも……もうできないの?
わたしはだんだん、ハルトが記憶を失ったことがかなりマズい事実なのに気が付き始めた。
それは、アルニエも同じだった。
「ブルーノ……」
小さくつぶやくアルニエ。顔はものすごく不安そうだった。
「ブルーノはいないということだな。魔王もいないのなら急ぎで解決しなければいけないことではないだろう。で、俺は今どんな状況になっているんだ?」
わたしとアルニエにハルトは説明を求めた。
「……まずは食事にしましょう」
アルニエがそう言い、わたしもハルトもそれに同意した。
今の空気で言い合っていても、きっとよくない結果になるだろうと思ったアルニエの優しい提案だった。
質素なテーブルの上には、煮込んだシチューと塩味で焼いたブロック肉を切ったもの。それに硬めのパンが置いてあった。
シチューはかなりの薄味で、焼いたお肉は塩が強く出ている。パンは普通だったけど時間が経っていたものなのか、ふんわり感がなく硬かった。
「相変わらずアルニエは料理ができないんだな」
「ちょ、ちょっとそれは言わない約束でしょ」
ふうっと笑うハルトと、顔を真っ赤にして否定するアルニエ。
なにか二人の間には割り込めない雰囲気を感じて、わたしは黙って食事をする。
悲しくなってきた気持ちになるのは、ハルトがすっかりわたしのことを覚えていないだけなのか、わからなくなってきた。
黙々と食事をしたあと、わたしはこの場所にいるのが辛くなって、外の空気にあたってくると二人にいい、家を出た。
ゆっくり歩いて、力を開放した場所に行く。
夜道は暗かったけど、少しも怖くなかった。
湖のほとりに腰を下ろし、わたしは湖を眺める。
「……ハルトが無事でよかった、けど」
あのときのデートのように嬉しくなかった。
息苦しいような、胸が裂けるような、そんな気持ちをわたしは抱えて、痛みを忘れるように湖面を見る。
わたしの心とは裏腹に、湖面は青く夜空を反射し、透き通っていた。
どれだけ湖面を見ていたのかわからない。空の星が移動し、湖面の模様も変わる。
わたしが立ち上がったのは、その静かな湖面に白い泡が立ち始まったときだった。
はじめは細かい泡が少しづつ立っていて、それが大きな泡になったのを見届けてしまったときには、もう逃げる時間がなくなっていた。
湖面がゆらめき、反射していた星空が消え、真っ暗な水から現れたのは大きなヌメヌメとしたモンスターだった。
禍々しいその姿はゆっくりと近づき、大きな口を開ける。
たくさんの牙はサメのようで、わたしは怖くてその場にすくんでしまった。
それがモンスターにはわかっていたようで、一気にわたしを飲み込もうとする。
食べられたら死ぬ。
それはわかっていたけど、さっきのことでわたしは……生きることがどうでもよくなってしまったようだった。
ハルトの心の中に、わたしはいない。
だったら実際にいなくなっても、何もかわらないよね。
そのぐらい、わたしの心の中を占めていたのはハルトだった。
初めて好きな人と相思相愛になれた。
その事実は、わたしの心を狂わせてしまったようで、今まで強かった自分がどこかに行ってしまった。
わたしは目をつぶり、胸の前で手をあわせ握る。
敬虔なクリスチャンのような姿で、わたしは自分を消そうとした。
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