他の都道府県でも似たようなものだと思うが、X県の県立高校では、異動する教員や退職する教員が3月の修了式後に、離任式と称して一人一人体育館の舞台上から全校生徒に向かって話しをする。

 ぼくは、こういう場合に話すことはたいていいつも同じで、幸子ちゃんから聞いた心理学的な内容を交えながら小学校の頃の思い出を話す。

「みんなも、いろいろと小学校や中学校の思い出があると思うけど、私も、一ついまだによく思い出すことがある。それは、小学校の5年生のことのことだ。私はその頃、仲のいい友だちが3人いた。それで、自分も合わせて4人で時々体育館の裏に行っていた。そこでやっていたのは気違い踊り…」

 ここで一部の生徒たちはどよめく。

 ごくたまにだが、授業中時間がある時、今のような話をして気違い踊りというのをやることがある。どよめいたのは、自分の授業を受けたことがある生徒たちだ。

「…4人でその気違い踊りというのをやって誰が一番気違いに見えるかをお互いに批評し合い競い合っていた。私も一番になったことが何回かあった。それはこんな踊りだ…」

 といって、舌を出し、天井を見つめ、手をぶらぶらさせながら足をその場に止まったままスキップのように動かす変な踊りをやった。これは、毎回スナックでやっている気違いのポーズを本格的に全身で行うものである。

 それを見た全校の生徒たちの半分くらいは、すぐに手を叩いたりして笑ってくれた。あとの半分はなんだろうと思って少々呆気に取られていたが、笑っている人たちにつられてだんだんと笑い出し、笑いの輪が広がり、体育館全体が笑いの渦に巻き込まれた。

 その後まもなくして笑いが収まったので、また話し始めた。

「…自分でも、なんでこんなことをよく思い出すんだろう。もう30年以上前のことなのに変だなあ。とよく思う。自分の中には、変なことを思い出す変な自分がいるんだなあ。と思う。でもそういう変な自分も大切な自分だ。変かもしれないが、何か理由があってそこにいるのだと思っている。みんなも、自分の中にいろんな自分がいて、その中には変な自分やら困った自分やら真面目過ぎる自分やらずるがしこい自分やら醜い自分やら立派な自分やらいろんな自分がいるかもしれないけど、そういういろいろな自分はみんな大切な自分だ、と思うべきだ。もちろん、言いなりになってもいけないけど、無視したり差別したりするのはもっといけない。そうした、自分の心の中にいろいろな自分がいるということをなんとなく頭の片隅にいれてこれからの人生を生きていくと意外といいことがあるかもしれない。別に合理的な根拠があるわけでもないけど、なんとなく豊かな人生を送れるかもしれない。というのが自分の言いたいことです」

 生徒たちは、わりとよく話を聞いてくれた。

 なぜか大勢の生徒を相手にこの話をすると、それから1~2週間は田上ティーチャーに対する怒りを感じなくなる。他人に話すことで、自分の耳で自分の話したことを聞き、それが学びとか心の安定につながっているのかもしれないが、どういう心の仕組みになっているのか本当のところはわからない。

 どこがどうつながっているのだろうか。不思議だけどそれなりに理由がありそうだが、それはわからない。

 やはり自分の心が自分でわかるというのは難しいことなのだろうか、と思いながらぼくは体育館の舞台から降りた。

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