二学期

 10月、今回は以前山口先生から言われたことを意識して、ちょうど試験当日の5日前に、中間試験の試験問題のコピーを山口先生に渡した。山口先生は、「ありがとうございます」と言って早速問題を読み始めた。

 しばらくして山口先生の机の近くを通ると呼び止められた。

「1番の問題なんだけど、前も言ったと思うけど、こういうのはなくして、単純に単語が一つずつ出ていてその意味をそれぞれ聞く問題と、問題文にいくつか設問がついている問題にした方がいいと思う」

 こういう問題というのは、1学期の中間試験で出題したのと同じタイプの教科書本文と同じ英文が一通り(10行くらい)出ていて、その下にそれを訳した日本文が同じく一通り出ていて、日本文の方に空欄があり英文と日本文を照らし合わせて見ながら空欄に適当な語を補う問題である。

「うーん、前にもお聞きしたかもしれませんが、それはどういう理由によるものですか」

「これじゃ生徒は何を答えていいかわからない」

「もしかしたらわからない生徒もいるかもしれないけど、どこを見て解答をするべきなのかということがわかるのも力のうちで、前回こういう問題を出した時はたぶん8割以上の生徒が、ある程度はできていた」

 山口先生は少しイライラしてきた。

「っていうか、これはなんですかこれは。この1番の(5)だけどこれは3番の(4)と同じことを聞いている」

「それは、現在話し合っている話題とは違うと思いますよ。今まで話し合っていたのは1番の出題形式自体に問題があるので、その出題形式を変えるかどうかという話で、今言ったことは重複している問題があるからどちらかを削除または変更した方がいいという話だから、まず出題形式の話をすすめませんか。重複している部分はこちらで考えてどちらかを削除または変更しておきますよ」

 山口先生は、さらにイライラがつのり、貧乏ゆすりを始めた。

「うーん。っていうかねえ。それと教科書の右側にある、指示語の問題がないんだけど入れて欲しい」

「それは確かに出題形式の話の一部だから、もとの話題に戻ってきていい流れになりつつあると思います。自分が作った1番みたいな丸ごと穴埋めの問題と、設問ごとに別の問題文があるような問題のどちらがいいかという話の一部として『thatは何を指すか』みたいな指示語問題をどう考えたらいいか、ということについて考えてみる、ということでいいですか」

「うん」

「何と何を比較検討するかというところで一つの共通認識ができて、よかったと思います。それで、結局こういう指示語問題は、聞いていること自体はかなりやさしくて小学校3・4年の国語でやっている。もちろん英語と国語の違いがあるのでそこはやや考えにくくなるのかもしれないけど、聞いていること自体は高校生にとってはけっこうやさしいので、出題してはいけないというほどでもないけど、出題しなきゃいけないというほどのことでもない。こういう内容は、小学校3~4年の頃からできていた生徒は、もともとずっとできていたことを再確認し、今までできなかった生徒は、ここで急にできるようになる可能性は非常に低い」

「そんなこと言ったら、他の問題だってやさしいから同じことじゃないか」

「『同じだ』という点は同感です。『同じ』というのは言うまでもなく、難易度が近いとかあるいは質的に似たようなことを聞いている、ということを指摘していると思うんだけど、そのことは『強いて変えた方がいい』ということの根拠ではなくて、『どっちでもまあいいじゃないか』という結論の根拠になりませんか。あと、難易度も大事だけど、それ以外の要素として問題を解く生徒の頭の中で何が行われているかという質的なことについて考えてみると、自分が作った1番の問題でも指示語問題でも、『どこを見て解答するべきか』という『部分の発見』ということが問題を解く上で大きな比重を占めていて、その点では問題にしていることは似ている」

 これを聞いた山口先生は不愉快そうな顔になり、イライラが頂点に達した様子で「どうでもいいですよ」と強い口調で吐き捨てるように言いそっぽを向いてしまい、これ以上は何を話しても答えてくれそうになかった。

 どうも言い方が悪かったかもしれない。素朴に考えている通りのことをしゃべり過ぎただろうか。

 でも、8年くらい前に田上ティーチャーが怒鳴り上げていた時に比べてみると、あそこまで強烈に怒らせたわけではなく、自分のしゃべり方が多少はソフトになったのかもしれない。もちろん相手が違うという面はあるのだが。あの頃は、わかりやすい言い方と言えば聞こえはいいが、「変えません」なんていきなり結論をしゃべっていたと思う。「アメリカ風のカウボーイスタイル」と言えばいいのだろうか、そういうしゃべり方ではなくなったのだけど、まだ工夫の余地はあるのかもしれない。

 自分としては「こことここが両者の考え方とか結論等が違うところだ」という共通認識をもって今後も継続して考えて行くようにしたかったのだが、かなり違う方向になってしまった。一通り具体的な問題についての見方を出し合ってから、「それじゃあ、こうした見方の違いがあるということを共通認識にして、今後もそれについてお互いに考えていくことにしませんか」という流れにしたかったのだけど、そうはならなかった。

 反省点になるかどうかわからないが、具体的な問題に入る前に「お互いに見方が違うところをうまく共通の問題認識に持って行かれるように心がけながら話し合うことも大切ではないでしょうか。例えば、『私はAだと考え、あなたはBだと考えている』この見方の違いがわかったのが大きな収穫で、『それをどのように考えていくかという方法論について意見を出し合っていこう』という共通認識が得られればそれが大きな収穫になる」みたいなことをなるべく具体的な内容に入る前に言った方が良かったかもしれない。

 でも、話し合いに入るときには普通一致点を見つける目的で始める場合が多いので、うまく言わないとなかなか難しいかもしれない。それと言うタイミングも難しい。

 それと、山口先生は比較的属人的な考え方をする人で、相手が自分よりもベテランだと思うとその人の言うことはなんでも「ハイハイ」と聞き、自分よりも後輩だと思うと最大限に自分の意見を通そうとするところがある。教員になったのは自分の方が早いが、この学校にいる期間は山口先生の方が長いので、その面でもなかなか難しいところがあったのだろうか。

 そう言えばP高校にいた頃、田上ティーチャーは年齢は下だけどその学校に来たり県立高校の教員になったりしたのは向こうの方が早かった。「自分の方が先輩だ」と思っている人に対してこちらの意見を言う場合にどういうふうな話し方をするのか、というところもなかなか知恵なり話術なりがいるのだろう。

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