二
その日は、研修のある日で、午前中は学校に行き、午後から例の教職員研修センターに出張した。
朝9時半より少し前に職員室に入っていたら、山田副校長がぼくのことを鈍く淀んだ目でじろじろ見ながら、ぼってりとした唇を動かして「今何時ですか」ときつい口調で言った。
ぼくは、なんだか怒られそうな雰囲気だなあ、と思ったが、別にやましいこともないので「9時27分です」と腕時計を見ながら機械的に質問に答えた。
「決められた出勤時間は何時ですか」
「8時半です」
「そうだろう、今9時半じゃあ、遅刻じゃないですか、遅刻」
と副校長は、怒りに燃えた目でぼくを見ながら勢い込んで言い放った。
そこでぼくは、副校長の机の横にある未決の箱の中を探して、「年休朝1時間」をとるために昨日書いて提出しておいた書類を見つけて、副校長の前に置いた。
副校長はこちらを見ないで下を向いて顔を歪め、吐き捨てるように「なんだあ」と言った。絵にかいたような陰鬱な様子で、「不機嫌な人は幼稚っぽく見える」という言葉を体現していた。
「ちゃんと処理してないのは副校長先生が悪いんだから、もう少し『ああ、そうだったんですか。失礼しました』なんて明るく言ったらどうですか」と言いたくなったが、そういう雰囲気でもないので止めた。
うちの副校長は、一言で言えば「こういうタイプ」だ。
真面目に一生懸命やっているのだけど不愛想で気が利かない、50代前半の小柄で黒縁メガネをかけた貧相な男である。
この時だって、自分が普通に職員室に入って来る時の様子とか、「9時半です」「8時半」と平気で答えている様子などを見て、「これは、こっちがちゃんと書類を見てなかったかな」と気づく人が多いだろう。処理していない書類がたまっている未決の箱は副校長のすぐ目の前にあるのだ。それでも、こんなに最後まで気づかないのもどうかと思う。そういうタイプの人だとしか言いようがない。
背が低くていつも神経質そうにイライラしていて顔色が悪くて雰囲気が暗いどうにもさえない人だ。電話で偉い人と話している時は、地面に這いつくばって土下座するような調子で「ハイハイ」と言うことを聞くが、経験の浅い先生に対してはいつも威張り腐っていて、どうも野暮で面白味がない人である。他人と対話をすることを楽しめない人なのだろうか。
真面目に一所懸命仕事をしているので、こんなことを言っては可哀そうだけど、中小企業の経営者などであれば社員がいなくなりそうなタイプである。公務員だから管理職としてなんとかやっていかれるのだろう。
ぼくは、この副校長によって書類を8回程度書き直しさせられたことがある。最初に提出したら3行目と15行目について指摘され、直して持って行くと5行目と12行目について指摘されて、それを直して持って行くと今度は1行目と17行目について指摘され、という具合に延々と修正作業が続く。なんでいっぺんに言わないで小出しにするのか不思議だった。見通しが悪く、自分でも何が大事でどうすればいいのか、というところがわかってなかったのだろうか。それともそうしたやりとりが、一種のいじめのような感じで楽しくてやめられなかったのだろうか。自分に対してだけでなく他の教員に対しても、行き当たりばったりの仕事の進め方をしたり、関連のある事柄をいっぺんに聞かないで断続的に何回かにわけて質問したりして、悪い方向に人巻き込むことがよくある。何か心の病を隠して無理して仕事をしているような雰囲気だ。
こういった様子を幸子ちゃんに話したら、「強迫性パーソナリティ障害」という専門用語を言っていた。こういうタイプの人のことを表す心理学用語らしい。
別の学校にいる仲間などに聞いた噂話をまとめてみると、X県の県立高校の管理職は、最近こういうタイプの人が増えている。ぼくが先生になった当初(10年くらい前)はそんなに多くはなかったのだが、どうしてだろうか。
最近、校長・副校長・指導主事などの教育職の管理職という職種は人気がなく、筆記試験を受ければ簡単に受かってしまう。だからかどうかはわからないし、もちろん例外もそれなりにあるのだが、以前に比べると授業が下手で生徒や周りの先生から人望がない人が管理職試験を受ける傾向があるようだ。教員をやっていても面白くないから、どうせなら多少は給料がよくて、雑用さえやっていれば授業をやらないでもお金をもらえる仕事に変わろう。といったところだろうか。
それではどうして、特に最近、校長・副校長などの職種に人気がなくなったのだろうか。
これはこれでなかなか考えさせられるテーマだが、一言で言えば、以前よりも管理職が行うべき雑用が増えたこととか、X県の教育行政が管理志向を強めていることなどがあると思う。
もちろん、そんなことを自分が考えてもなんの解決にもならないが、気になることではある。
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