事件が起きて4日目に、合同部会が開かれた。いつものように生活指導部職員室で行われ、2学年と生活指導部のほとんどすべての教員が参加した。

 合同部会の冒頭でぼくが当事者として考えていることを述べてそれについて質疑応答を行い、その後ぼくは席をはずして会議に入るという流れだった。会議に参加するのは好ましくないが、ぼくが当事者としてどう考えているのかは聞いておきたいようだった。

 どうもあまり話すべきことが頭の中でまとまっていなかったし、今までの会議に参加していないために流れがよくわからず「どういうことを言えばいいのか、どういうふうに気をつかえばいいのか、それとも別に気をつかう必要もなくただただ思っていることを正直に言うだけでいいのか」といったところはよくわからなかった。

 結局、その時に思いついたことだけどそのまま話すことにした。

 参加すべき人が集まったのでぼくは話し始めた。

「事件が起きた日に体育科に行って、大道先生と栗山先生がいるところで、『寛大な措置をお願いしたい』という趣旨のことを言いましたが、それについては考えが変わりました。あの時は、事件が終わってすぐであまり冷静に考えていなかった面もあり、校長先生が『大変なことになる』『もし生徒をやめさせたら本当に大変なことが起こる』と言われてそれ以外のことを考えられなくなっていましたが、それは今考えてみると冷静さを欠いていたと思います。校長先生の言ったことだけにこだわらないで、職員会議でみんなの意見を聞いたりして、決めます」

 それを聞いて、2年C組の担任で英語科の女性教員、富田先生が言った。

「決めるって何それ。別に沢田さんに決める権利があるわけではありませーん」

 最後の「せーん」のところに独特の抑揚をつけて強調するしゃべり方だった。

「もちろんそうです。自分が今決めるって言ったのは、採決の時にどちらに手を上げるか決める。ということです」

「今、決めるって言ったじゃない」

「言いました。それは、職員会議でどういう態度をとるか、採決の時にどちらに手をあげるか、必要があるときにどういう発言をするかを決めるということです」

 大道先生が割って入った。

「それじゃあ、あの時『指導方法があまりうまくなかったから寛大な措置をお願いしたい』みたいなことを言っていたけど、その意見ははずして考えてかまわないということですね」

「はい」

「他に、何か沢田先生に質問はありますか」

 誰もそれ以上の質問はしなかったので、ぼくは席をはずして図書室に行った。


 例によって、図書室には教科書や指導書・辞書などを持って行き授業の準備をしようとしたが、あまり集中できなかった。

 事件のこととかこれまで先生業をやった体験などが、繰り返し頭の中に浮かんだり消えたりした。

 確かにあのクラスはみんな授業をするのが大変だと言っているが、その中でも自分だけがこうした事件に巻き込まれるのだから、やはり自分の生徒との接し方が下手なのだろう。上手下手の問題というよりも、「心構えの問題」「誠意」等々の言い方の方が正確なのかもしれないが、とにかく何か問題があるのだろう。

 最近時々想うし、前回この場所に来た時にも想ったのだが、これまでの先生業の経験を振り返ってみると、X学院という学習塾で小中学生に教えている時が一番楽しく、特に小学生に教えるのがうまくいっていて面白かったように思う。

 算数の授業で図形の問題をやっていて、「ここに線を引いてみると何か気がつかないかな」と言った時に生徒が「あ、わかった」と叫ぶうれしそうな声や目の輝き。

 国語の授業で物語の読解問題をやっていて、「ここは、登場人物がしゃべっている内容よりも、言い方に注意してみよう。『~だなあ』と書いてあるけど、これはどういう気持ちで言っているのかな」という発問をした時の、「うーん」という生徒のつぶやき。

 あの時が人生で一番幸せな瞬間だったと思う。

 どういうヒントを出すと生徒の「あっ、わかった」を引き出すことができるか、というところが醍醐味だった。

 今とどこが違うのだろうか。

 英語と算数・国語の違い。

 学校と塾の違い。

 高校生と小学生の違い。

 考えられる要素は主にこの3つ。

 英語と算数・国語の違いというのはあるかもしれない。英語以外でも同じかもしれないが、語学の初級段階の授業を面白くやること自体難しいのかもしれないし、学生時代、学習者としても英語よりも国語や数学・算数の方が得意だった。英語は大学生の頃教員試験に受かりやすいということで大学の先生に勧められて教員免許を英語でとることにした。それはもちろん就職戦略としては正しいが、本当に自分にとってよかったかどうかはわからない。

 自分の過去を振り返ってみると「高校生と小学生の違い」及び「学校と塾の違い」に関係がありそうなことが頭に浮かぶ。

 子どもの頃、家で母親が主に小学生相手にピアノを教えているのをいつも身近に見ていた。小学生の成長を援助する大人のあり方というのを日常的に見ていたことでなんらかの感覚が身についているような気がする。「門前の小僧習わぬお経を覚える」というところだろうか。

 逆に高校生相手であまりうまくいかないのは、自分の高校時代に学校で何も教わったような覚えがなく、受験勉強は学校の勉強とは関係なく自分でやっていたことと関係があるのかもしれない。

 でも来年の3月直ちに退職して塾の先生に戻るというのも、なんだかせっかく教員採用試験に受かったのにもったいような気がする。

 日々の教える喜びというものは何ものにも代えがたいのだが、この先高校で教えていて、絶対にそれが得られないと決まっているというものでもない。自分の教え方なり生徒との接し方なりが変化して、授業の在り方や生徒との関係が変わる可能性がないとは言いきれないのだから。

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