奇跡なんて起こらない

「ライル様っっ!!」


 マリーさんの声が、紅く照りつける庭に響き渡った。

 その声に我に返り、わたしはつんのめく足を必死に奮い立たせて彼の側まで転がり込む。

 血が溢れて止まらない。

 側には気がつけば、他の使用人たちもいた。


「直ぐに、直ぐに治療士ヒーラーの手配をっ!」

「ダメだ! それじゃあ間に合わないっ……」

「だからって黙って見捨てろっていうのっ!?」


 怒号、怒声、慟哭、絶叫。

 わたしの耳に、悲鳴が響き渡る。

 スカートの端を破いて、必死になって血を止めようとした。でも、真っ白な布が紅く染まるだけで止まらない。

 目の前に絶望だけが滲んでゆく。


 ねぇ、ねぇ、ねぇ。どうして。どうしてわたしの声は出ないの?

 どうして肝心なときに、わたしは誰も助けられないの?


 ただただ愛おしい人が死ぬのを黙って見ているなんて、できない。

 神様がいるなら、教えて欲しい。わたしたちは、いや、彼は、一体何をしたというのですか。

 彼は優しくて温かくて、でもときに子どもっぽくて、でもそこが可愛くて、でも仕事もできて剣術をやっているときが一番カッコ良くて、なのになんでなんでなんで。


 もし、本当に神様がいるなら、お願い。


 わたしに彼を、守らせて。


 何を失ったっていい。もう、声なんて戻らなくてもいい。足でも手でも、なんでも上げる。




 だから、お願い。わたしに、もう一度だけ声を──




 無謀な願いだった。原因は分からないのに、声なんて出るはずがない。

 でも、何故か喉に違和感を覚えた。喉が震える。何度か息を吸ってみる。


「──らい、る」


 声が、出た。

 この一瞬、一瞬だけ、わたしは神様を信じてもいいと思った。

 肺に息を溜めて、喉を震わす。


 歌が、まるで水のように波紋を立てた。


「りの、らさ、ま」

「…………」


 目を見開くマリーさんに笑いかける。


 大丈夫。彼は、わたしが絶対に守るから。

 血に濡れた手で彼を抱き上げる。

 ぎゅっと抱き締めて、わたしは歌った。


 この場にいる全ての人に響くように。


 誰かが、奇跡の音色だと言っているのが聞こえた気がした。

 彼の傷が、淡い光を帯びてゆっくりと治ってゆく。


「……りの、ら?」

「っっ! ら、いるっ……っバカ」


 彼が、目を覚ました。まだ掠れた息をしているけど、ちゃんと、生きてる。安堵のあまり、泣き出しそうになる。

 もう二度と聞けないと思っていた声が、聞けた。

 それだけで、わたしは幸せだった。


「ライル、ひとつだけ、言わせて」

「うん……?」


 屋敷が鎮火され、淡く輝く光が消えてゆく。

 まだ意識が薄い彼に、細やかながらも仕返しをしてやろうと思うの。

 首を傾げる彼の唇目掛けて口付けを落とす。

 唖然とする彼に向けて、わたしはこう言い切った。


「わたしも愛してる。だから、結婚しましょう」
















 侯爵家の襲撃から、漸く一月が経った、その頃。

 わたしたちはその間、王都にあるもう一つの別荘に住むことになった。

 今回の首謀者でもある彼女は、わたしの声で一命を取り留めた。でも、どうやら他にも色々なことをやっていたらしい。噂だけど、死刑だと言われていた。他にもクロフォード侯爵家を潰そうと目論んでいる人たちが、この一件で捕まった。もともと、全てを弾圧するつもりで仕事に望んでいたみたい。だからあんなに疲れていたのか、と妙に納得した。

 彼女の方はもう狂っていたから、あの場で死んでいたほうが楽になるのかもしれない。

 生かしてしまったわたしがこれを言うのはなんだとは思うけど、でも、許せることじゃないのは確かだった。

 彼がわたしを部屋から出そうとしなかったのは、それを懸念してのことだったみたい。わたしのほうに狂った矛が向くのが怖かったのだと、後から教えてくれた。

 勿論、お説教はしたけど。


「……リノラちゃん、綺麗よ」


 その事件から三月経った、今日。わたしは結婚する。

 真っ白いウェディングドレスを見て、ミラさんが目を潤ませる。わたしは思わず笑った。


『ありがとう、お義母様』


 あの日から、わたしの声はめっきり出なくなっていた。このことに関しては、誰が首謀者だったかはっきりしていない。ただ、彼女は関わっていた、らしい。声が出なくなる呪いだと聞いた。

 でも、声が出ないならもういいと、わたしは思っている。

 だって、声が出ないなら紙に書けばいい。そうすれば、わたしの意思は伝わる。

 それに、あの時奇跡だって言われたけど、あれはそんなものじゃないと思うの。

 ただ、わたしが代償を支払った。多分、それだけ。

 彼の命の代わりにわたしの声が亡くなっただけなら、本望だった。

 ミラさんに連れられて、小さなチャペルの扉をくぐる。

 その先には、彼がいて。

 わたしは、彼の胸に飛び込んだ。


「リノラ、綺麗だよ」

『ありがとう』


 ライル・・・と話すときは何故か、唇を動かせば伝わるの。

 なんだからこれって、とても素敵なことじゃない?

 幸せだった。いろんなふうな道を辿って来たけど、結局、帰って来たのはここ。

 アイリがこちらを見て、不服そうながらも拍手をしているのが見えた。


「この、バカップルが。とっとと幸せになりなさい!」


 心配したのに、と怒りながらも目尻に涙を浮かべる親友に、わたしは微笑んだ。


「リノラ、もう離さないから」

『わたしだって』


 彼に口付ける。






 空高く、純白の薔薇のブーケが舞い上がった。

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