侯爵家、襲撃

「……なんだ」


 彼は起き上がって眉をひそめた。未だに嫌な音は響き渡っている。


 確か、ミラさんは今日は、いなかったはず。


 そうなると、侯爵家内で戦えるのは、彼とその他従者数名だ。女性の中で戦闘経験があるのは、マリーさんだけだと聞いた。


 彼は直様立ち上がり、魔術を使う。それがやっぱり、腐っても歌姫(オペラセリア)だからなのか、肌で感じ取れた。

 行ってるのは、多分、念話。


「……リノラ。マリーを呼んだから、それまでここを絶対に出ないで」


 必死になって縦に顔を振った。それと同時に歯痒さが襲う。


 わたしの声が出たら。

 彼の、役に立てたのにっ……。


 自分の無力さに絶望する。いつも、どうして肝心なときに、わたしは誰も守れないのだろう。

 そんなことを考えていたから、不安そうな顔をしていたんだと思う。彼は、わたしの頬に口付けを落とした。


「大丈夫。絶対にリノラは守るから」


 違う、違うの。そういう意味じゃないの。


 だけど、去って行ってしまう彼を引き止める術を、わたしは知らない。

 暫く、動けなかった。


 悔しい、悔しい悔しい。これじゃあなんにも守れない。あの頃の自分とおんなじだ。ただ、他の人たちの後ろに隠れてるだけの、わたしとおんなじ。

 悔しくてたまらない。

 ひとり、唇を噛み締めていた。


 そんなときだった。


 扉が、吹き飛んだ。

 驚きのあまり、喉がひとりでに引き攣る。そして爆煙から現れた人物を目にした瞬間、固まった。


「あらあらあら。いたわぁっ。リーノラちゃんっ」


 目の前に立つ狂った女は、伯爵家令嬢。

 そう。ライルに付きまとわり続けた彼女だった。

 目が狂っていた。動きが緩慢で、どこかおかしい。恐怖を感じた。

 髪は乱れ、もともと赤毛だった髪は煤けてくすんだ色をしている。


 この、騒動も、彼女がっ!?


 彼女は血のように真っ赤なドレスを身にまとって、その長く鋭い爪が伸びる指で、わたしを無理矢理連れて行こうとした。

 腕を振って抵抗する。でも、ビクともしない。別人だった。


「ちょっとぉ……面倒かけさせないでよぅっ」

「……っつ!!」


 パンッと、頬をはたかれ、挙句先の尖った高いヒールで足を蹴られる。そのままずりずりと引きずられるように歩かされた。

 口の中に嫌な味が広がる。

 辺りは、燃えていた。

 それを止めようと消火に走る声が聞こえる。とても暑い。気付いたときには顎から汗が幾つもしたたっていた。

 そんな中でも、目の前の彼女はひるまない。まるでこここそが楽園だとでも言うように、悠然と歩くのだ。


「うふふ。やぁっと、一緒になれるのね」


 高く高く響く笑い声が恐ろしい。てらてらと彼女の頬に照り返る紅は、血だった。

 目の前の人間の女の形をした何かは、わたしの手首を強く握り続けながらとうとう外に出た。






「リノラッッッ!!!!」


 出た瞬間、聞こえたのは彼の叫び声だった。

 そのとき、気がつけば彼女に後ろに立たれ、首元にナイフを突きつけられる。


「あらぁ、ごきげんよう、ライルさまぁ」

「っ、サクセル伯爵令嬢……君は自分が何をしているのか、分かっているのか?」

「分かってる? 当たり前ですわぁ!!」


 何がおかしいのか、彼女はケタケタと壊れた笑い声を上げる。

 わたしの首筋から、ぷつりと紅い珠が浮き出た。

 背後の屋敷がごうごうと音を立てて燃えている。


「貴方と一緒になりたいの。わたくしはそのためならなんだってするわ」


 とくり、と、胸が鳴る。

 その願いは、わたしのものと同じだった。

 その願いが狂った方向に向かったのが彼女なら、わたしはなんなのだろう。

 わたし自身もこうなる可能性があったという、暗示のように思えた。

 彼の顔が苦しそうに歪む。


「……リノラを、離せ」

「貴方様がわたくしの元に来てくれるなら、幾らでも」


 彼女の目に映っているのはわたしじゃない。彼だ。彼女は彼しか求めてない。


 ダメ、ダメ。


 何度も首を横に振る。ナイフの先が、わたしの首筋に紅い筋を作る。

 どうせ死んだようなわたしだ。なら、彼が生きたほうがいい。きっとこの女は、貴方を殺す。


「早くしませんと、この女を苦しみながら殺していきますわよぅ?」

「っ……!!」


 ダメ。

 でも、通じなかった。


「……分かった。分かったから、リノラを返せ」

「貴方様が先に来てくださいな」

「行くから、それと同時にリノラを解放しろ」


 彼が一歩、また一歩とわたしのところに来る。


 やめて、やめてやめてやめ、て。


 首を振って否定しても、彼が歩みを止めることはなかった。

 彼が目の前に来た瞬間、後ろからドンッと押される。体が横に飛んだ。


「リノラー!!」

「っっっ!!」


 ライル。

 ライル、と。そう叫ぼうとした。

 その彼に、あの女が抱き着いていた。

 こぷり、と、彼の口端から紅い筋が伝う。


「あは、あははははっ!!」


 これで、やぁっと、一緒ですわ。


 女は、わたしのほうを見下すように、彼を身を貫いたナイフで、自分の首筋を刺した。


「────ッッッ!!!」


 いや、よ。


 力なく膝を折り、彼が崩れ落ちる。

 その唇が紡いだ音は、死刑宣告のようだった。


 リノラ、愛してるよ。


 お願い。お願いだから、そんな、お別れみたいのことを言わないで。

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