そんな、噂
それから、わたしは屋敷から出れることはなかった。どうやら彼が、屋敷の使用人たちに厳重に言って聞かせたらしい。殆ど部屋から出ることすら許されない。
監禁されているみたい。
思わずそう思ったわたしは、手元の本を閉じた。
内容は、監禁された女の子を助け出す騎士様のお話だ。
わたしの場合は、そんなに酷いものではないけれど。
一日に三回、マリーさんが食事を届けてくれるし、本だって与えられた。礼儀作法は一通り行える。やることは殆ど、ないに等しい。
出来ることなら触媒の調合などをやってみたかったけど、そんなことを言い出せる立場ではないと諦めている。
窓を見た。少しだけ、あの森小屋が心細い。
あの日以来、彼はわたしの前に姿を現さなくなった。わたしがあんなことを言ったからかもしれない。そう思うと、自分の不甲斐なさに苛立ちが募る。
なんとなくそわそわして、わたしは部屋の中を行ったり来たりした。リビングとしての部屋は落ち着いた緑の絨毯が敷かれ、寛ぐための柔らかいソファ。食事やお茶のためのスペースとして椅子、テーブル。そして窓辺の小さなテーブルには、今の春の時期が開花どきの白い花が飾られている。
リィノア。
そう言った名前の花。
わたしの名前に似てる、って笑って、この時期になるといつも部屋に飾っていた花だ。
ハートの形に見える六枚の白いはなびらが可愛らしい。
わたしはその花を、そっと指先で撫でた。
ほどなくして、マリーさんが部屋に訪れた。その手には、紅茶や茶菓子が載ったカートが。
思わず目を白黒とさせるわたしに、マリーさんは椅子へと促した。
そっと席につくと、目の前に香りの高い紅茶が置かれる。
これ、は。
「我が領地の特産品でもございます、花紅茶にございます。旦那様はリノラ様がお好きであったことを、今でも覚えていらっしゃいましたよ」
ティーカップを包み込むように手に取れば、懐かしい香りが広がった。この、この優しい花の香り。
一口含めば、鼻を抜ける香りとさらりとした舌触り。
変わらない、んだ。
にこにこと微笑むマリーさんを見上げ、わたしは思った。
そんな紅茶のお供は、濃厚なチーズを使ったベイクドチーズケーキに、バターが香るフルーツパウンドケーキ。
どちらも濃厚で舌触りも良く、美味しい。フルーツパウンドケーキのほうはたくさんのドライフルーツが使われていて、食感も良かった。
マリーさんは来るたびに、わたしに外の話をしてくれる。
「庭の花がとうとう咲きはじめましたよ」
「今朝、料理長がこけているのを見まして、」
「先ほど、宰相様に怒られてしまいました。理不尽です……」
マリーさんは、アイリに似ているな、と漠然の思った。
そんな話を聞きながら日々を過ごす。
でも、彼はこない。
ああ、なんていう矛盾なのだろう。
皮肉の意味も込めて失笑する。馬鹿馬鹿しい。わたしが、わたしが突き放したんじゃないか。
そんな日々が、数日間続いていたときだった。
唐突に、部屋の扉が開かれた。
目を見開いて驚く。慌てて立ち上がれば、そこには女の人がいた。
この人は──
「……リノラちゃん……!!」
彼によく似た黒い髪をなびかせ。
彼女はわたしに抱き着いてきた。
思わずそのままソファの上に座り込む。でも、彼女はわたしのことを離そうとはしなかった。
ミラさん。
ミラさんは、彼のお母さんだ。
その上でわたしのお師匠様。だって、ミラさんはわたしよりも優れた歌姫(オペラセリア)だから。
ミラさんがいてくれたから、わたしは彼と出会えたのだ。
ミラさんはわたしの喉元にそっと触れ、いたましそうな顔をする。
「リノラちゃん……っ、治らな、かったの?」
治りませんでした。
治ることなんて、ありませんでした。
力なくふにゃりと笑う。ちゃんと笑えているのか、分からないけど。
わたしの声は、一生戻らないのかもしれない。
するとミラさんは、悔しそうに顔を歪めた。
「アタシは、アタシは歌姫(オペラセリア)なのにっ……」
ミラさんが悪いことなんてないんです。
ただ、声が出なくなっただけ。それだけ。
だから、お願いです、ミラさん。貴女だけは自分のことを、責めないでください。
紙には書けない。ミラさんに抱き締められているから。
だから、首を振った。優しい香りのせいか、頬を雫が滑っては落ちる。
「リノラちゃん、泣かないで……」
わたしの優しいお師匠様は、二年前と何も変わりませんでした。
ミラさんに淹れてもらった紅茶を飲んだら、ささくれだった心も大分落ち着いた。すると向かい側で紅茶を優雅にすするミラさんは、にこにこと嬉しそうに笑う。
「でも、リノラちゃんが帰ってきて良かったわ」
『ご心配を、おかけしました……』
申し訳なくなってそう書き綴れば、ミラさんはカラッとした軽快な笑い声を零す。
「アタシとしたら、嬉しいのよ。リノラちゃんは結構頑固だから、一度会わないって決めたら、ライルと会ってくれないでしょう?」
図星だった。会うなんてなんておこがましい、と思ってしまうのだ。ならお互いに忘れたほうが幸せだと。
でも、わたしたちはどちらも忘れなくて。
だからこそ、どちらも傷ついた。
わたしは、こんな自分が嫌で、彼に迷惑をかけたくなくて逃げ出して。
彼は、そんなわたしを愛してくれて、だから、連れ戻そうとした。
彼は、傷付けたわたしを当たり前のように受け止めたくれたのだ。
思わず俯くと、ミラさんが眉をハの字にするのが見えた。慌てて顔を取り繕ったが、あんまり上手くいかない。
「リノラちゃん。アタシはやっぱり、貴方たちは結婚した方が良いと思ってる」
「…………」
「だって、二人とも相思相愛なのに。大丈夫よ。リノラちゃんはアタシたちが全力で守るから!」
守る。
その単語が、わたしの中の琴線に触れた。
わたしは、ただ甘んじて守られているのが、嫌だった。
きゅっと唇を噛む。そんなの、嫌だ。なら、一人のままでいい。
頭を振る。どうしてだろう。どうして、分かってくれないの。
そんな風に思っていたわたしに、ミラさんはこう言った。
「……これはまだ、極秘なんだけど」
思わず立ち上がりかけていた足の力を抜く。するとミラさんは、声をより一層低めてひっそりと話してくれた。
「貴女のその声を封じたのは、ライルにつきまとっていたあのご令嬢なのかもしれないのだって」
声が出ることなんてないのに。
喉の奥で、何かが暴れ回るようにわなないた。
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