歯車は噛み合わない

 わたしは沈黙の中、彼と向き合って座っていた。部屋の中に漂うスープの香りが、今は妙に鼻につく。

 彼、ライルは、二年前と何も変わらないままだった。それどころか、わたしなんかよりよっぽど綺麗。つやつやした黒髪も、理知的な紫の目も、何も何も変わらない。

 その一方でやっぱり、わたしはみすぼらしい。

 鬱陶しいという理由で髪は切ってしまったし、手も水仕事や土仕事をやり始めたために荒れている。


 こんな姿、見られたくなかった。

 できることなら、そのまま放っておいてくれれば良かったのに。


 そう叫べないもどかしさを抱えて、わたしは俯いた。髪が垂れ下がり、わたしの顔を隠す。


「……どうして、逃げたの」


 その言葉に、胸が突き刺さるように痛みを発した。

 痛い、痛い。

 責められている、と何故か思った。その声は普通だったのに。

 負い目があるからかもしれない。

 紙に意思すら書けずに項垂れていると、彼が立ち上がる気配を感じた。


 ああ、行っちゃう。


 でも、彼を追いかける権利はわたしにはない。

 ただじっとしていた。


 悲しくなんか、ない。

 苦しくなんか……


「……っっ!?」


 そう思っていたら、体がふわりと浮いた。

 ぎょっとして顔を上げれば、彼がいる。

 わたしは自分が今どんな格好にあるのかを、彼が我が家の扉を開いたときに漸く気付いた。

 わたしは、横抱きにされていた。

 羞恥心と動揺のあまりばたばたと暴れ出すが、彼はビクともしない。ただ悠々と森の中を歩いてゆく。


 ど、何処にいくのっ……。


 もしかして警邏隊に連れて行かれる?

 侯爵家を侮辱した罪でっ?


 嫌な想像がいくらでも膨らむ。でも、言葉がないから意思が伝わらない。

 でも、と、わたしは思わず彼の胸元を叩いていた。


「どうかした、リノラ」


 唇の動きだけでどうにか伝わらないものか、と出来るだけゆっくり話をしてみる。すると彼は、その動きを見て全てを分かったらしい。


「何処に行くかって? 侯爵家だよ。リノラは、僕の婚約者だから」


 開いた口が塞がらない。そんなもの、もう終わっている。わたしが逃げ出したあの日から、もう終わっているはずよ。

 そしてわたしはそのとき、結婚の話を思い出した。


 唇を必死に動かして意思を伝える。二年間使わなかったせいか、舌が回りにくい。

 でも彼は、わたしの意思を知ろうとこちらを真っ直ぐ見てくる。


「……誰だ、そんな噂を流したのは」


 返ってきたのは、珍しいくらい機嫌の悪い彼の声だった。

 恐ろしさのあまり、びくりと震える。昔、しつこい伯爵家の女性に言い寄られてふったときくらいには機嫌が悪い。

 しかしその言葉に、不覚にも安堵してしまった自分がいた。


 ただの、噂だったんだ……。


 気が付けば、森の出口が見えていた。

 森を出たところには、以前にも見たことがある家紋が掲げられた侯爵家の馬車がある。


 え、本当に、侯爵家に行く、の?

 それよりも、わたしの、家はどうなるのっ?


 わたしの意思なんてお構いなしに、彼はわたしを馬車に乗せた。

 無情にも馬車は、わたしの意思とは裏腹にゆっくりと動き出した。











「まぁ、リノラ様……! なんとおいたわしいっ!!」


 二年前と同じ見た目の侯爵家に着いた瞬間、投げかけられたのはそんな言葉だった。

 目の前には栗色の髪をお団子にしたメイドさんが立っている。以前、わたしのお世話をしてくれていたマリーさんだ。


「マリー。リノラに服を。そして身嗜みを整えてくれるかい?」

「当たり前ですわ! さ、リノラ様っ。湯浴みの支度は整っております」


 目が回る。わたしはここに長居するつもりはない。

 首を横に振ったけど、マリーさんはお構いなしにわたしの背中を押した。

 気が付けば二年前となんにも変わらない、わたしの部屋だった場所に入れられ、お風呂に入れられてごしごしと有無を言わさず洗われ、肌や髪に香油を塗り込まれ、髪を梳かされ、気が付けば上等な柔らかいドレスを着せられていた。

 全身がぐったりと重い。

 ソファに寄りかかるように座っていたら、ノックがされた。


「リノラ、入るよ」


 わたしに拒否権なんかないのに、と半ばヤケになっていた。なんの意思に関係なく連れてこられたのだから、もともと何か変わるとも思えない。

 わたしはのろのろと身を起こした。

 彼が入ってきた。

 そして向かいのソファに腰掛ける。


「リノラ。ずっと探してた」


 わたしは渡された紙とペンを手元に置き、どうしたものか、とペンを弄る。なんて書けば良い?

 怖かったから逃げました? って本音を言うべき?

 貴方のことなんてもう好きじゃないの、って突き放すべき?

 ぐるぐると頭が回る。朝からおかしくなりそうだ。

 何も書き出そうとしないわたしを見て、彼は悲しそうに微笑む。


「リノラのこと、今でも変わらず愛してるよ」


 その言葉は、まるで毒のように耳を、鼓膜を、脳を支配した。そんな言葉が欲しかったわけじゃない。でも、何より待ち望んでいた言葉なのには間違いなくて。

 気付けば手元の紙は、ぐしゃぐしゃにシワを寄せていた。

 震える手を必死に押さえ付け、わたしは意思を綴る。


『わたしには、貴方の隣りにいる資格なんてない』


 はっきりと突き放した言葉を書いて、彼に突きつける。しかし彼は優しそうに微笑んだままだった。


「資格なんて必要ないよ。それに僕は、リノラがいないなら死んでもいい」


 声がないのに喉が引き攣った。絶句。唇がわななき、手元からペンが転がり落ちる。

 絨毯の上を滑るペンは、彼の爪先にことりと当たって止まる。

 彼は何時の間にか、わたしの目の前にいた。


「この二年間、リノラがいないだけでとてもとても空虚だった。必死になって君を探し続けたよ。ねぇ、リノラ。僕は君がどんなに嫌がろうと、君のことは離さない」


 もう、あんな痛みはこりごりだ、と顔を歪める彼を見て、ああ、と思った。


 おんなじだった。

 わたしが感じた感覚と、全く持って同じ。


 ぎゅっと痛いほどに強く抱き締められる。今までの空白を埋めるみたいに、強く強く強く。

 でも、と、心の声が言う。

 彼は、侯爵家当主だ。

 愛人ならまだしも、身分の違いがある。その上わたしの価値は既にない。声が出せないなら意味がない。

 侯爵家当主の夫人は、そんな彼を支えてあげられるだけの包容力豊かな女性じゃなきゃ無理だ。

 落ちぶれたわたしが、該当するはずがない。

 わたしはその温度から逃れるために必死で藻掻いた。彼は驚いたように力を緩める。

 押さえ込んでいた何もかもが、ぼろぼろと剥がれ落ちて。

 何も聞きたくない。何も知りたくない。


『出て行って』


 絨毯からすくい上げたペンで、殴るようにそう書く。

 突きつけられたそれを見て、彼は痛ましく顔を歪めた。

 数秒の間の後、足音が遠ざかり扉が閉まる。

 わたしは力なく、その場に座り込んだ。


 数分くらい経った頃だと思う。マリーさんが入ってきた。

 マリーさんは絨毯の上に座り込むわたしを見て、焦った様子でソファの上に座らせた。


「旦那様から何があったのかはお聞き致しましたが……」

「…………」


 顔を覆って涙をこらえる。泣いたら負け。今まで何があっても泣いたことがなかったわたしの、最後の意地までは剥がしたくなかった。

 するとマリーさんが優しくこんなことを言い出した。


「旦那様は、リノラ様が唐突に消えられましてから、酷く荒れたのですよ」


 荒れた。

 彼に似合わない言葉だった。

 思わず顔をあげてしまう。

 マリーさんは尚も告げた。


「はじめの頃は、本当に酷い有様で。数日間はお食事すら喉に通らなかったのです。時々思い耽った顔をなされては庭の花を荒らしたり、執務室の書類を投げたり。前より落ち着かれたように見えたのは、リノラ様を探し出す、ただそれだけのために動いていたからです」


 知らない。そんな彼は、見たことがない。

 いつも完璧で、何をするにも冷静で、優しくて、思いやり溢れた人。

 その人が、わたしがいなくなったことに対してそんなにも取り乱したなんて。

 混乱するマリーさんは、祈るように両手を組み合わせた。


「ですから、お願いにございます。リノラ様も、素直になってください。旦那様の隣りにいられるのは、リノラ様以外おられません」


 気が付いたら、マリーさんはいなくなっていた。

 わたしはよろよろと寝室の扉をくぐる。

 そしてそのまま力なくベッドに横たわり、何をするでもなくうずくまる。

 ぽた、と、シーツにシミができた。

 ぽたぽた、と、尚もシミは増える。


「──っっ!!」


 叫ぼうと喉から悲鳴を上げた。でも音にはならない。永遠にそれは変わらない。

 ただただ悲しくて、寂しくて、悔しくて。

 なんて、情けない。

 枕に顔を押し付け、拳を握り締める。


 二年間。何も努力しようとしなかったのは、わたしだった。

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