悪夢、再び
「──っっ!!」
悪夢を視た。体を跳ね上げる。そして夢だと分かって、安心してしまった自分がいたことに気付いて嫌悪した。
わたしが視た夢は、彼と他の女の人が、結婚式場で嬉しそうに微笑みあっている瞬間。
ああ、どうして、ここまで執着してるの。
未だに安定しない呼吸を整えながら、わたしは自分の往生際の悪さを恨んだ。
アイリからあの報告を受けて以来、わたしはしょっちゅう似たような悪夢にうなされていた。夜眠るのが怖いのに、今までの寝不足が祟って睡魔に襲われる。でも寝たら寝たで必ずと言っていいほど視てしまう悪夢に、わたしは疲れ果てていた。
多分、わたしがきっぱりと諦められていたら良かったのだと思う。
でも往生際の悪いわたしはいつまでもあの時のことを夢に見てしまう。これからなど絶対に叶うことのない、その幸せな未来を。
重い頭を抱えてベッドから這うように出る。素足のまま下りた床はとても冷たい。
いつもなら着替えて暖炉の火をつけているところだったけど、今はそんなことをする気力すらなかった。
ふらふらと素足のまま外に出て、小川の直ぐ側で膝をつく。まだ暗い森の小川に映り込んでいるのは、酷くやつれた銀髪碧眼の女の姿。
ふと、このまま川に飛び込んで溺れ死ねたら、楽になれるかな、そう思ってしまった。
慌てて首を振り、座り込む。弱い自分が情けない。
いい、リノラ。これは、彼を裏切ったわたしの罰。
罰は赦されるまで償わなければいけない。彼にしてしまったことを考えれば、それくらい当然だ。
小川の水を手で掬い、顔を洗う。水に触れた箇所が覚醒していくような感じがした。
そうだ。ずっと森の中にこもっているから、こんなことになるんだわ。
長い間ひとりきりというのは、存外堪えるものだ。たまには街に下りてみよう、と思い立ち、わたしは勢い良く立ち上がって家へと戻った。
朝食の用意もすっぽかして、アイリからもらった洋服がつまったクローゼットを開く。
お金もこつこつと貯めてある。なら、何か他のことに発散出来るはず。
久々に本屋を見に行くも良し、雑貨屋で何か買うでも良し。
何度も考え抜いて洋服を選び出した頃には、いつもの朝食より三十分ほど遅れることになった。
□■□
久し振りに下りた街は、思わず眩暈がするほど人で溢れていた。フードの付いた白いポンチョで顔をすっぽりと隠してあるので一先ずは安心。
今日着てきた服は、鮮やかなマリンブルーが綺麗なワンピースに青の靴、白のポンチョ。肩には斜めにポシェットをかけた。この中にはお金が入っているから大切にしないと。
比較的治安がいい場所だからと言っても何もないわけではない。盗難もあるし暴動も起きる。
小さく胸に拳をつくり、わたしは一番のお目当てである本屋さんへと足を運んだ。
指先で本を抜き出し、パラパラとめくる。この国の識字率は九十パーセントととても高い。本が普及しやすいのもそのため。
いくつか見繕った本を買え終えた頃には、既にお昼になっていた。
外に出ている食べ物屋でホットドッグを買う。それをパクつきつつ、わたしは他の露店も見て回った。
森で獲れた鹿の肉の串焼き、スパイシーな香りが漂うスープ、色鮮やかな染物屋、小さな宝石を加工した飾り。
二年間見ていなかったそれらは、わたしの何かを刺激した。少しだけ楽しくなる。
こんな辺境に彼が来るわけがない。それが分かっているからこそ、わたしはここを選んだ。
興味本位で色々なものを手にとった。声が出ないから筆談で値切った。思っていた以上に楽しいもので、忘れかけていた笑みも自然と浮かぶ。
思っていた以上に色々なものを買ってしまい、荷物が増えた。重い。そこでわたしは噴水のある広場で休むことにした。ちょうどベンチも空いている。そこにちょこんと座り、落ち着いて辺りを見回してみる。
そこには母親の手を掴んで歩く親子や、楽しそうに遊ぶ子供たち、わたしのように休憩のために休む人が。
平和で、温かい。
今思えばわたしは、王都の水が合わなかったのかもしれない。もともと争うのは嫌いで、でも、歌姫(オペラセリア)だったから王都にいた。歌姫(オペラセリア)が使われるのは基本、お金持ちのところが多かったから。
地方で働いていたら、彼にも会うことはなかったのにね。
そしてまた、彼のことを思い出してしまうのだ。
つきりと心が痛む。それを拭い去るように、大きく頭(かぶり)を振って荷物からマドレーヌを取り出した。美味しそうな焼き菓子を買い込んだのだ。
たっぷりのバターと砂糖の甘く優しい味をゆっくりと噛み締める。そんな中、視界に真っ白な鳩の群れが映った。確か先ほどまで、噴水の近くでおじいさんたちからパンくずをもらっていたはずだ。
怒声と悲鳴が響いた。
驚きのあまり、噎せそうになる。鳩の群れが舞い上がった。
慌てて辺りを見回せば、そこには女性のことを掴んで絡んでいる男が数名いる。何かあったみたい。
わたしは荷物を抱えて、野次馬の中に飛び込んだ。
その横暴な物言いに、気付けばわたしは顔を歪めていた。
「おうおう、姉ちゃん?
ぶつかったくせにお詫びもなしかあ?」
「ぶ、ふつかってきたって、そっちがわざとやってきたんじゃない!」
「黙れよ!」
「ひぃっ……」
中身のない会話は、わたしが昔投げられた蔑みにも似ていた。貴族社会では、弱者を見下す傾向にあるのは明白。
唇を噛む。腹立たしい。何故、女性ばかりが虐げられなくてはいけないの?
気が付けば手が、ポシェットの中に入っていた。手探りで探り当てれば、望んでいたものが指先に当たる。
あった。
辺りを見回せば、誰かが警邏隊を呼びに行こうとしている会話が聞こえた。それまでに目眩ましができればいい。こんなゴロツキ、とっとと何処かにいけばいいのだから。
わたしはてのひらで、触媒をしっかりと握り締めた。
これは、わたしの唯一の護身手段。
魔術が使えなくなって、途方に暮れた。そんなときにがむしゃらになって、触媒の研究を独学で行ったのだ。
タイミングを見計らう。わたしが触媒を投げ込んだのは、とうとうゴロツキが手を上げようとしたとき。
てのひらでそれを押し潰し、投げた。
野次馬の中からなのでばれることはない。ゴロツキの足元に転がり落ちた触媒は、強い光を発した。
「んな……!?」
閃光、爆発音。
野次馬たちが一斉に逃げ出す。わたしもその波に乗って逃げ出した。荷物が重いけど、それらをしっかりと胸に抱いて駆ける。どうなったかは分からないけど、あの女の人が無事ならそれでいい。
ある程度の場所まで走ったわたしは、息を整えた。苦しい。普段はあまり走らないだけあって、足も痛い。
でも、自己満足だけど、良かったと思った。
もう、帰ろう。
息を整えて、辺りを見回す。誰もいないことを念入りに確認した後、わたしは帰路に着いた。暗くなる前に帰らなくては、森の中じゃ危ない。
深くフードを被り直し、わたしは機嫌の良いままに鼻歌を歌っていた。
帰ったら、美味しいパンを焼こう。
影が、ゆるゆると尾を引くように伸びる。
次の日の朝。
いつも通り、川から水を汲んでお湯を沸かし、細かく刻んだ野菜と少しのお肉を入れて、スープを作っていたときだった。
呼び鈴が鳴り出した。
その音に思わず、首を傾げてしまった。
こんな場所に来るのはあのおじさんか、もしくはアイリくらい。他に来るなんて、今まで一度だってなかった。
多分、おじさんかな?
たまにあった。触媒が足りなくなって、突然だけれど来たことは。
ぱたぱたと駆けて、エプロンのポケットから紙とペンを取り出す。
そして扉を開いた。
瞬間、視界が漆黒で埋まった。
目を見開いたけど動けない。抱き締められているから。
「リノラ」
その響きを聞くだけで、胸が温かくなった。でもその反面、ぞわりと背筋をなぶる凍えた何かが付き纏う。
どう、して。
視界いっぱいに広がるその人は、ライル・クロフォード。
わたしの、元婚約者だった。
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