私の声が、聞こえますか?
しきみ彰
本編
始まりのお話
声が出なくなったのは、本当に突然のことだった。
婚約している彼のお家で目を覚まして、いつも通り、歌の練習をしようと中庭に出た。中庭で歌を歌うと、鳥たちがたくさん集まってくるから。わたしはその瞬間が好きだったの。
でも、息を吸って声を出そうとしたとき、それは音にはならなかった。
「──」
何度試しても結果は変わらない。背筋に冷たいものが下ってゆく。
思わずわたしは走り出した。彼の、彼のところに行かなくちゃって。彼が唯一、安心できる人だからって。
でも、それが間違いだったの。
結局、苦しめるだけ苦しめて、わたしは彼の元から逃げた。逃げて、独りになりたかった。だって、声の出せない魔術師なんて、なんの価値もないもの。
誰もいない場所に逃げられれば、この胸の苦しさからも開放されると思って。とある森の奥深くにまで、逃げた。此処は殆ど人が寄り付かない特殊な森。
当てもなく彷徨って、わたしは運の良いことに使われていない家屋を見つけて、そこで生活を始めた。
でも待っていたのは凍えるくらいの孤独と、胸の内を巣食う罪悪感や苦渋のみ。
それから、もう、二年の月日が経って、わたしは何時の間にか、〝深淵の魔女〟と呼ばれるようになっていた。
「──」
息を吸って、喉に力を入れる。でも、それは音にはならない。
今日もまた溜息をついて、わたしはベッドの上から抜け出す。森の中で迎える朝は、年中涼しいか寒い。急いで着替えを済ませ、暖炉に薪を焼べた。そして薪と一緒に火を起こす触媒も放り込んだ。触媒というのは特殊な製法によって作り出される媒介で、これさえあれば魔力の少ない一般人でも軽い魔法くらいなら使える。たとえば、こう言った日用的に使えるものなどだ。
パチパチと火花を散らし始めたことを確認した後、売り物用の触媒を取り出して数を数える。今日は、信頼出来るおじさんが来る日。わたしは触媒を売ることで、お金、食料などを調達して、細細と生活を続けていた。
わたしは二年前まで、〝歌姫(オペラセリア)〟という特殊な魔術師を生業としていた。歌姫は国でも数人しかいないとされる歌で魔術を編み出す者で、普通なら必要とされる触媒を使わなくても声を通して魔術を編み出せる。それゆえに重宝した。特に治療士(ヒーラー)としての力は絶大で、声の届く範囲にいる人なら誰だって治せた。
でも、わたしは声を喪ってしまった。
理由は分からない。でも、声は二年経った今でも戻らない。
だから毎朝わたしがしていることは、とても無意味だと思う。でも、確かめずにはいられない。その度に絶望することになったとしても、わたしは声が戻るという未来を諦めきれなかった。
声が戻れば、また彼と一緒に過ごせるかも、なんて。
あり得ない話なのに。
触媒を包み終えた頃、呼び鈴が震えた。少しギシギシと軋む床を踏み締め、急いで扉を開けば、やっぱりそこにはおじさんがいた。
ポケットから紙とペンを取り出して、さらさらと文字を綴る。
『おはようございます』
「おはよう。ほれ、今日も持ってきたぞ」
『いつもありがとうございます』
渡されたのは三日分の食料と、お金。わたしも代わりに触媒を渡す。
「ありがとう。お嬢さんの触媒は質が良いって、皆喜んでるよ」
そんなことはない、と思う。わたしより触媒を作るのが上手い人は沢山いる。
でもそんな声を押しとどめて、わたしは紙にこう書き綴った。
『ありがとうございます』
おじさんがいなくなった後、日が上らない内に近くの小川から水を汲み出す。桶で掬い出した水はキンッと冷たい。ついでに小川から手で水を汲んで顔を洗えば、そこには少しばかり痩せた銀髪に碧眼の女がいた。
長かった銀髪は唯一、わたしが純粋に誇れるもののひとつだったと思う。でも今となってはお洒落はおろか、身嗜みを整えることすら殆どしない。ここには人という人がこないからだ。
肩先で切り揃えられた銀髪は、差し込む朝日で鈍く輝く。
再度小川を覗き込めば、青色の瞳がくすんだ色を発していた。
ぴちょんっと、小川から魚が跳ねる。そして魚はゆらゆらと下ってゆく。
その様をぼんやりと眺めた後、わたしは桶を持って家へと戻った。
お昼頃。ちょうど、触媒に必要な草木や他の薬草を摘みに森の中を歩いていたときだった。
背後から声がかかった。
「リノラ」
草木を摘むことに意識がいっていたせいか、その声に飛び上がって驚く。でも、わたしがここにいることを知っているのは一人しかいない。
アイリ。
歌姫(オペラセリア)時代の同期であり、わたしの唯一の幼馴染の親友。
振り返って見上げれば、そこにはやっぱり薄茶色の長髪を垂らした勝気な親友が。彼女の背後から差し込む木漏れ日が目に痛くて、少しだけ瞳を眇めた。
薬草でいっぱいになったカゴを抱えて立ち上がる。するとアイリがくすくすと笑った。
「あんた、頬っぺたに土が付いてる」
全く、仕方ないわね。
そう言いながら、アイリは頬に付いた土を拭ってくれた。アイリの綺麗な指に土が付く。慌ててハンカチを出そうとした瞬間、カゴを落としかけた。
「リノラ、何やってるの。相変わらずおっちょこちょいなんだから」
アイリにそう言われると面目が立たない。
アイリは相変わらず、都会らしいオレンジ色のワンピースを着ていた。アイリは時折こうしてわたしの様子を見に来ては、洋服を買ってきたり街の話をしてくれる。本当はアイリにすら言わずに出て行こうとしたんだけど、何故か小屋での生活が数日も経たない内に見つかってしまった。恐ろしいのだ、アイリは。
今日もその手には紙袋が下げられている。そして、見慣れない箱も。
「薬草も集まってちょうどいい頃合いだから戻りましょ。あ、あと、お菓子も持って来たのよ」
成る程、その箱の中身はお菓子だったのか、と頷く。
少し土の付いたエプロンを軽く払い、わたしはアイリと一緒に家へと戻った。薬草をキッチンの上に置き、今朝汲んできた水を鍋に注ぐ。そういえばこのキッチンを作るように手配してくれたのもアイリだし、この家屋の修繕や家具の手配をしてくれたのもアイリだったなぁ、と漠然と思い出した。アイリは昔から世話焼きで、おっちょこちょいなわたしのことを心配してくれている。優しい優しいお姉さんみたいな人だ。
火の触媒をコンロに放り込んで火を付けた。その上に鍋を置いて湯を沸かす。
アイリが持ってきてくれたのは、巷で有名なケーキ屋さんのケーキだ。森の中にいると甘い物が果物などに限られてくるだけあって、そういった差し入れは正直嬉しい。なので特製のハーブティーを淹れようと意気込み、ガラスのカップをふたつと同じ素材のポットを用意した。湯が湧くまでの間は、アイリと向き合っておしゃべり。
「最近向こうではこんなのが有名でねぇ──」
「あ、こんな服買ってみたのよ、リノラに似合うと思って」
「酷いのよっ? この間近所のおじさんがいきなり怒鳴ってきて!」
アイリの話はどれを聞いても楽しい。その上アイリは筆談がなくてもわたしの表情や仕草で大体のことを理解してくれるから、肩が凝らなくて楽だ。
そうしている間に、鍋の湯が沸いた。わたしはアイリに軽く仕草で立つことを告げてキッチンに向かった。
そんなときだ。
「……リノラ、あたし、こんな噂を聞いたわ」
鍋に触れようとした手が、止まった。
アイリがここまで深刻な声を出すことは滅多にない。嫌な予感が止まらない。
鍋の湯がぐらぐらと沸き立つ。
「クロフォード侯爵家の長男、とうとう結婚するんですって」
このとき、本当に後ろを向いていて良かったと思った。動揺を隠し通せる自信がない。でも、平静を装って鍋の湯を注いだ。ハーブの柔らかい香りがわたしを少し冷静にさせてくれる。
クロフォード家は、わたしの元婚約者のお家で、その次期当主がわたしの婚約者だった。
彼が、結婚する。
嫌だと思う反面、幸せになってくれればいいな、とも思う。彼はわたしとは違って、幸せにならなくちゃいけない人だ。そしてわたしは多分、あのときのことをずっと胸に抱えて生活する。だから独りでいたかった。
ソーサーに置かれたカップをテーブルに置き、更にポットを運ぶ。わたしより、アイリのほうが深刻な顔をしていた。
ポケットから取り出した紙に、素早くこう書き込む。
『わたしは大丈夫よ』
そう言って、へにゃりと笑う。笑えてるかな、わたし。
するとアイリはまるで自分のことのように顔を歪めた。
「……あんたたち、本当にそれでいいわけ?」
「……」
わたしは、いいわけない。でも、彼が幸せな姿を見れるなら、どんなに胸が張り裂けそうでも平気なの。
ポットからハーブティーを注ぐ。一口すすれば、爽やかなハーブの香りがふわりと通り抜けた。
ソーサーに戻そうとしたカップの中のハーブティーがたえず波紋を作っている。
「……リノラもあのいけすかないお坊っちゃまも、馬鹿よ。馬鹿」
『ごめんなさい』
「っ……あたしは、あんなにそんな顔させたくて言ってるんじゃないのよ!」
『ありがとう、ね』
かたん、と、椅子が後ろに振れた。
そして、左の頬に走る鋭い痛み。
アイリに叩かれたのだと気が付いたのは、彼女が涙を溜めてこちらを睨んでいることを確認した時だった。
「もっと素直になりなさいよ! あんたにだって、あたしは幸せになって欲しいのよっ!!」
アイリはわたしの親友で。一番の理解者で。
だからこそ、わたしの気持ちを理解してるんだと思う。
でもね、アイリ。もう、遅いの。
逃げ出したのはわたしだった。それは何がどうであれ変わらない。戻ることなんて赦されない。
ごめんね、アイリ。アイリを、悲しませたいわけじゃ、なかったの。
わたしの代わりに泣き崩れるアイリを抱き締める。でも、壊したのはわたしなの。なら、それを背負うのが当たり前でしょう?
泣いちゃいけないわたしの代わりに涙を零してくれるアイリはやっぱり、何処までも何処までも優しい。こんな親友を持てて、わたしは本当に幸せ者だね。
思わず、天井を仰ぐ。
わたしの右頬を、小さな粒がひとつ、滑り落ちた。
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