国際合コン忘年会(6)


「Hey! You!」


 鋭い女の声に、佳奈はうっすらと目を空けた。


『何してんの!』

『誤解だよ、誤解。いやいや、双方合意の上で……』

『どこが合意だっての。彼女、寝てるじゃん!』


 早口の英語の向こうで、テンポの速い音楽がかなりの音量で流れている。佳奈は、小さく欠伸をしながら目をこすった。


「藍原さん、ずっと探してたんだよ。時間、大丈夫?」

「時間……」


 声に促されて腕時計を見ようとした佳奈は、自分の身体が大柄な男の長い腕に絡めとられているのに気付いた。密着する広い胸板を見上げると、視線の先に、狼狽する翡翠色の瞳があった。


「え、あの、マイケル、さんっ?」

「王子様のキスは間に合わなかったね~」


 仁王立ちになっている川島の後ろで、蘭野が遊び人天使アレッソと共にけらけらと笑っている。


「キス…?」

「未遂だから大丈夫だよ」

「!」


 口を半開きにして固まった佳奈を、川島は背高貴公子から引き剥がした。


「もー、誰もタイムキーパーしてないんだから。私とランちゃんが話し込んじゃったのも悪かったけどさ」

「私、今、何して……」

「それより、もう十一時半だけど大丈夫?」


 川島に男物の腕時計を見せられた佳奈は、激しいビートに負けない勢いで飛び上がった。


「あ、あの、私もう帰らないとっ!」

「電車あるかな。取り敢えず上に行こ」


 川島は佳奈の手を引いてエレベーターに向かった。その後を、残念そうに肩をすくめる背高貴公子と、彼をからかう蘭野とアレッソが続く。


 一階のバーエリアでは、ゲルマン軍人とセクシー映画俳優を相手に、朴が片言の英語で必死に喋っていた。通訳代わりの川島と蘭野の姿を見つけた彼女は、助けが来たと言わんばかりに大きく手招きした。

 川島は、それに応えつつ小さな鞄から携帯端末を取り出すと、乗換案内アプリを起動させた。


「藍原さん、お家は埼玉のほうだっけ? 何線使ってるの? 最寄駅は?」

西武せいぶ新宿線の狭山市駅です」

「サヤマシ駅……。あ、マズイね」


 小さく呟いた川島は、絶望的な内容を表示した画面を佳奈に見せた。蘭野も、佳奈に顔をくっつけるようにして、それを覗き込んだ。


「あらら~、あと五分で終電出ちゃうのか~。藍原さんって結構遠かったんだ?」

「と、取りあえず走ってみます! 今日はありがとうございましたっ」


 佳奈は勢いよくお辞儀をすると、クラブの出口へ向かおうとした。そして、手荷物とコートがないことに気付いた。そう言えば入場時にクロークに預けていた。焦って頭の中が真っ白になる。

 うろたえる佳奈に、男装の麗人と美脚モデルは揃って「今からじゃ無理だよ」と無情な宣告をした。


「ここから六本木の駅に行くだけで五分以上かかっちゃうし、駅に着いても、そこからホームまでかなり潜るからね~」

「諦めて明日の始発で帰ったほうがいいんじゃない? タクシーで帰ったらバカ高いよ。深夜は二割増しだし」


「えっ、そ、それじゃ……」


 佳奈は夜遊びに慣れた先輩たちを交互に見つめた。今更ながら、「川島と金曜日に一緒に飲むと朝帰りになる」と言っていたシェパード顔の先任の渋い顔が思い浮かぶ。


「でも、始発まで、どうしたら……」

クラブここも五時までやってるし、近くに二十四時間営業の喫茶店もあるからそこで時間潰してもいいし。始発まで付き合うよ」

「マイケルと二人でラブホに行くなら、お引き留めしないけど〜?」


 少々アルコールが回っているらしい蘭野は、いやらしく目を細めると、脇にいた背高貴公子を軽く佳奈のほうに押し出した。翡翠色の瞳とうっかり目を合わせてしまった佳奈は、真っ赤になって後ずさった。


「そ、そそ、それは、無理ですっ」


「What are you talking about? (何の話?)」

「『ラブホ』って何ですカ?」


 日本語を解さない背高貴公子と、中途半端に日本語の分かる韓国人女子が、キラキラした目で佳奈をじっと見つめてくる。


「あの、あの、やっぱり、今日はタクシーで帰ります!」

「じゃあ、電車でどこまで行けるか調べてみよっか……」


 川島は、一人で騒がしく笑い転げる蘭野をゲルマン軍人に押し付けると、再び携帯端末をいじり始めた。今度は朴が顔を寄せてきた。


「まだ『しん所沢ところざわ止まり』があるはずデス。そこからなら、佳奈サンの降りる駅まで、たぶん二つ」

「ミヨンちゃん、詳しいね」

「ワタシも、西武新宿線使ってるカラ。ワタシの降りる駅、佳奈サンの駅の三つ隣で、新所沢駅の一つ手前。そこまで佳奈サンと一緒に行けル。一人より二人のほうが安全」

「あ、ホントだ。『新所沢止まり』ならまだ間に合うね」


 呆然と立ち尽くす佳奈の横で、川島と朴は電車の乗り継ぎ時間を確認した。



 クロークで手荷物を受け取り慌ただしく身支度をすると、もう日付が変わるまで十五分余りしかない。佳奈は、この後も長い夜を過ごすらしい美男美女の面々に礼を言うと、朴とともにクラブを飛び出した。

 背後で「Myマイ littleリトル angeeelエンジェルー!」と叫ぶ男の声が聞こえたような気がしたが、振り返る余裕はなかった。


 深夜でも眩しい街の中を、人波を縫うようにして地下鉄の駅へ向かう。


 駅入り口に辿り着くと、朴は佳奈の腕を掴んで、複雑な駅構内を迷うことなく走った。エスカレーターをいくつも駆け降りてようやくホームへたどり着くと、さほど待たないうちにえんじ色のラインの入った車両が入ってきた。平日の昼間と同じくらいの人数が乗っている。

 朴の後について電車に乗った佳奈は、普段使っている地下鉄よりやや狭く感じる車内をぐるりと見回し、ようやく息をついた。


大江戸おおえど線ってホントに深いトコにあるんだね」

「大江戸線の六本木駅は、日本で一番深い地下鉄の駅だって聞きましタ」


 外国人の朴のほうが、佳奈よりよほど都心の事情に詳しいらしい。

 朴は、「新宿に着いたらまた走るヨ」と言って、真夜中の地下鉄にはあまりそぐわない子供っぽい笑顔を見せた。


 地下鉄を降りて地上へ駆け上がり、六本木に比べるとやや地味な新宿の街を、朴の先導で走る。


 佳奈が使う私鉄のターミナル駅に着くと、ほどなくして見慣れた黄色い電車が入線してきた。電車を待っていた乗客たちが乗り込み始める。

 朴は、佳奈の手を掴んだまま、二人分が座れそうなスペースへ突進した。転がり込むように場所を確保して周囲を見回すと、すでに車内の座席はほぼ埋まっていた。


「西武新宿駅から乗ると、座れる可能性が高いから、楽ですヨ。終点まで行く電車がなくなった後は、少し空いてル」

「朴さん、なんだか、ものすごく慣れてない?」

「川島サンたちと遊んだら、いつもこうデス」


 佳奈は苦笑いしつつ、鞄から携帯端末を取り出した。着信履歴に、音声通話とメールが合わせて十件ほど入っていた。発信元はすべて父親の携帯番号だった。

 メールを開けなくても、送り主がかなり怒っていることは容易に想像できる。仕方なく、最寄り駅まで行く終電を逃し二つ手前の駅からタクシーで帰る旨だけを、ごく短い文章で送った。


「佳奈サン、お父サンお母サンと一緒に住んデルの?」

「うん。朴さんは一人暮らし?」

「そうデス。日本ではずっと一人」

「そっか。どんなきっかけで日本に……」


 話している途中で、鞄にしまった携帯端末が震えた。恐る恐る着信メッセージを見ると、佳奈の乗る電車の終着駅まで父親が迎えに来るという内容が、ごく淡々と書かれていた。


「お父サン、新所沢まで来てくれるの? 良かったネ」

「絶対、怒られそうだけど……」


 佳奈は脱力して溜息をついた。それが欠伸に代わる。寒空の下を走った身体には、座席の下からじわっと温めてくる暖房が心地よい。


「佳奈サン、寝てて大丈夫。ワタシの降りる駅、終点の一つ手前だから、ワタシが降りる時に起こすネ」

「ありがと……」


 最後まで言い終わらないうちに、佳奈はまどろみ始めた。



 ひやりとした風とともに、「終点ですよ」と呼びかける男の声が聞こえた。


 佳奈がはっと辺りを見ると、乗客の姿は見えず、代わりに濃紺の制服を着た駅員が目の前に立っていた。

 立ち上がろうとして、左肩に重みを感じた。見ると、朴が佳奈に寄りかかって熟睡していた。


「朴さん! 一個前の駅で降りるんじゃなかった?」

「...졸려チョルリョ(眠い)」

「ねえっ、乗り過ごしちゃってる!」


 佳奈の大声に、ようやく目を覚ました朴は、途端に耳慣れない言葉を発しながらおろおろとうろたえた。

 朴を連れて電車を降りた佳奈は、線路を挟んで向こう側にある上り線ホームを見やった。すでに電気が消えてしまっている。


어떡해オットッケ어떡해オットッケ(どうしよう)~」

「そうだ。私のお父さん、車で迎えに来てるはずだから、朴さんのお家まで送ってあげられるかも……」


 泣きそうになっている朴の手を引いて、佳奈は人気のない改札を抜け、駅前のロータリーに向かった。


 六本木とは雲泥の差の真っ暗な闇の中に、見覚えのある白い車が停まっていた。近づくと、中から父親の進司が出て来た。


「今、何時だと思ってるんだ!」

「一時十五分デス」


 佳奈の後ろで律儀に答える人影に気付いた進司は、目を丸くして沈黙した。


「あ、あのね、朴さんっていってね、今日お友達になったの……」

「初めまシて。韓国大使館の朴美英ミヨンデス。よろしくお願いしまス」


 まるで空気を読まない朴に、佳奈は冷や汗をかきながら父親を伺い見た。


「朴さんのお家、お隣の駅なんだけど、乗り過ごしちゃって……。送ってあげられる?」

「……取りあえず乗りなさい」


 進司は憮然とした顔のまま車の中に引っ込んだ。佳奈が強張った顔で後部ドアを開ける。


정말チョンマル 감사カムサ합니다ハムニダ...あ、ありがとうございマス」


 藍原家の車に乗り込んだ朴は、一人嬉しそうに顔をほころばせた。佳奈がその隣に小さくなって座る。

 背格好の似た二人をバックミラー越しに見た進司は、前を向いたまま、たまらず小言を吐いた。


「若い女の子が午前様なんて……」


「ゴゼンサマって何ですカ?」

「分かんない」


 小声で問う朴に、佳奈は首を傾げた。運転席から呆れたようなため息が聞こえてきた。



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