人脈作り(2)


 渉外班長の下関が眉間にしわを寄せて唇を引き結んだのは、班でカウンターパートの話をした数日後のことだった。


「おはよう藍原君。次の君の任務だが」

「班長、もう日が暮れます」


 荒神が猛禽類的な目を鋭く細め、茜色に染まる窓の外を見やる。しかし、下関はまるで意に介す様子もない。


防衛情報本部うちの本部長のグリーティングカードの準備を頼む」 


 佳奈は怪訝そうに首を傾げた。「挨拶状グリーティングカード」とは、何の隠語だろう。


「カードを使う連絡方法があるんですか?」

「連絡方法?」


 部下の反応に意表を突かれたのか、スパイマスターを気取っていた1等海佐の顔は、途端にいつものフグ面に戻ってしまった。


「連絡、っていうか、クリスマスカードなんだけど……。あと半月で十二月だし」

「班長が出だしで変なこと言うから、話が通じなくなるんですよ」


 先任の追立は、さもうんざりとため息をつくと、疲れたシェパードのような顔を佳奈のほうに向けた。


「今のは文字通りの解釈でいいんだ。この時期になると、組織のトップ同士でクリスマスカードをやり取りするんだよ。宗教上の問題があるから、無難に『グリーティングカード』って言ってるけどな。うちの親玉の場合は主に、普段から付き合いがある情報機関の長や在日米軍のJ2ジェイツー(情報部)長、それから駐在武官の連中に出してる」

「普通のクリスマスカードを、ですか?」


「そう、そう」


 下関が苦笑いして口を尖らせた。


「でも、それも外交上の大事な仕事だからね。取りあえず、送付先のリスト作ってくれる? 去年のがあるはずだから、それを基にすればいいよ。で、宛先の氏名階級に変更がないか、分析部の担当課にチェックしてもらって。それから、親玉が今年会ったVIPの分も追加よろしく。接遇と出張のファイルを見れば分かるから」

「はい」


 佳奈はほっと顔をほころばせた。今回は平和的な事務仕事らしい。


「発送までの要領はだいたい申し送りに書いてあると思うけど、分からないことがあったら、……月野輪、見てやってくれる?」


 班長から突然の指名を受けた1等陸尉は、「了解です」と背筋を伸ばした。


「先にカードの在庫を確認しとくか。足りなそうだったら、早めに発注かけんと」


 月野輪が部屋の出入り口を指してのっそりと立ち上がる。佳奈も急いで席を立ち、のしのしと歩く熊の後について、フロア端にある倉庫へと向かった。




 佳奈が、書簡用の備品一式の入った小さな段ボール箱を抱えて渉外班に戻ると、班長と先任の間に、リラックスした様子でパイプ椅子に座る見知らぬ女がいた。

 いや、ハーフを思わせる彫りの深いその顔立ちには、何となく見覚えがある。確か、頭一つ分背が高かった彼女は、取り皿を片手にテーブルの上に並ぶ料理をあれこれと物色していた……。


 佳奈が何か思い出しかけた時、相手のほうが「あーっ!」と叫んだ。


「前にどっかで会ったよね? 何かのレセプションだったっけ」

「きっと大使館の……」

「やっぱそうだよね!」


 さらに音量を上げる女に、隣にいる追立が思わず顔をしかめた。


「何だ、もう知り合いなのか」

「確か、イタリア大使館のレセプションで会ったんですよ。ご飯が美味しかったから覚えてます。でも、その時はほとんど話せなくて」

「タダ飯食うのに忙しいもんな」

「違いますよ、失礼なっ」


 ハーフ顔の女は2等陸佐に無遠慮なふくれっ面を見せた。


「話そうとしたら『エリちゃん』が来て、彼女、その対応に行ってしまって……」

「エリちゃん?」

「ロシア武官のエリストラートフ少将です。名前長くて言いにくいから、では『エリちゃん』って呼んでて……」


 佳奈は、場にいた制服一同がギクリと固まるのを見た。その彼らが、ふいに遠くに感じる。周囲の物音が消え、自分の心臓が不快な鼓動を打つ音だけが頭に響く――。



「藍原さん!」


 名を呼ばれ、佳奈ははっと我に返った。班長の下関がぎこちなく口を尖らせていた。


「わ、悪いけど、先任の『お客さん』に、コーヒー淹れてくれる?」


 佳奈は、持っていた箱を取り落とすように自分の机に置くと、部屋の隅に備え付けてあるコーヒーメーカーのところへ逃げるように走って行った。



 「お構いなく」と慌てる女に、下関と追立が揃って険しい顔を寄せた。


「ここでロシア武官の話は出さないでくれる?」

「……あ、もしかして、『ビザ事案』の当事者って、彼女……?」

「どこでその話聞いた?」


 下関がさらに声を低めて迫るように尋ねる。しかし、女は臆することなく、くっきりした切れ長の目で1等海佐を見返した。


の班長から、保全絡みの注意喚起事項として、そういう話がありました。は、の駐在武官とは防衛情報本部そちら以上に深い付き合いがありますから」

「何か書類ペーパー出てた?」

「いいえ、口頭のみです。とある保全関係者から、『秘相当』という前置きで内々に話があったそうで……。ビザ事案に実際に関わった部署名と個人名は出ていません」


 期待以上の情報が盛り込まれた回答に、フグとシェパードは安堵の笑みをもらした。


「彼女、……藍原さん、ですよね。かなり若そうですけど、何年目ですか」


 追立が首を伸ばして、コーヒーを入れている佳奈を見やった。


「今年入ったばかりなんだよ。確かまだ二一……」

「若っ。じゃあ、高卒枠採用なんですか。そういう新人相手に『エリちゃん』も容赦ないですね。さすがGRUゲーエルウー(ロシア軍参謀本部情報総局)のヒト……」


 女は追立と共に眉をひそめた。しかし、佳奈がコーヒーを持って戻ってくるのを見ると、素早く笑顔を作って立ち上がった。淡いグレーの爽やかなパンツスーツ姿が、不穏な空気を吹き飛ばした。


「あの時は挨拶しそびれちゃってごめんね。陸幕りくばく情報課武官業務班の川島かわしま芳実よしみです」

「あ、戦車の……」

「戦車ぁ?」


 川島は一瞬目を丸くすると、右隣に座る2等陸佐をジロリと見下ろした。


「ちょっと、私のこと何て話したんですか。またレオパルト戦車がどうのこうのとか、あることないこと言ったんでしょう」

「あることだけ言った」

「もう、初っ端から引かれちゃうじゃないですか」

「それはない。うちの新入りは、戦闘機乗り志望だった剛の者だからな」

「マジでー?」


 赤面する佳奈をまじまじと見つめた川島は、クールなハーフ顔を崩して歓喜の声を上げた。


「うちら、守備範囲は違うけど、絶対気が合いそうだよね!」

「は、はいっ」

「そうだ、月末か来月初めの金曜日に国際合コン忘年会やるんだけど、藍原さんも来ない?」


「なんだそりゃ」


 佳奈より先に、追立があきれ顔で茶々を入れた。


「ドイツ大使館の武官室にいる人と飲む予定だったんですけど、どうせなら人数集めて合コンっぽくしたいって話になって」

「お前、そういう類のと付き合ってんのか。異国の男は懲りたんじゃないのか」

「人のプライベートを勝手に喋らないで下さいよ。情報部隊ではお喋りは嫌われるんじゃないんですか」

「年々生意気になるなお前は」

「おかげさまで」


 川島は、己をお前呼ばわりする2等陸佐に悪態をつくと、あっけにとられる佳奈をさらに誘った。


「男側はみんな外国人だけど、ノリは普通の合コンと同じだよ。女のほうは、今のトコ、私と空幕くうばく(航空幕僚幹部)の同期と韓国大使館の武官室にいる子の三人。藍原さんに入ってもらえると四対四になってちょうどいいんだけど、興味ない?」

  

 返事に迷い、佳奈は口ごもった。合コンと呼ばれる席に参加した経験はない。二年弱の大学生活の中で、学生らしい開放的な気分を満喫したのは、入学後の数か月だけだった。残りの日々は、悪質なアルバイトと公務員採用試験の勉強に費やされて終わってしまった。同級生と街で遊ぶことも、海外から来た留学生と交流することもなく――。


 佳奈は戸惑い気味に自分の上司を見た。下関は、愛嬌のある目を細めると、川島にフグ顔を向けた。


「外国人って、みんな大使館のヒト?」

「そうです。全員武官室のスタッフで、男はタイとイタリアとドイツとカナダ。あと、女性に一人韓国人が……。あ、防衛情報本部そちらでは、外国籍の人と会うのは規則上ダメですか?」

「うちの部は、事前事後の報告があれば基本OKだね。相手の国にもよるけど……。追立、今の話なら特に問題ないんじゃない?」

「まあ、そうですが……」


 渋い顔をするシェパードに、川島は得意げに胸を張った。


「全員、タチの悪い人間じゃないことは保証できます。数年来の飲み友ですから」

「お前を敵に回す度胸のある奴はいないだろ。その点は心配してない。ただ……」


「大使館の秘書たちと知り合うのも、悪くないと思うよ。都合が合うなら顔出してみたら?」


 下関は佳奈を見て楽しそうに口を尖らせた。


「行ってもいいですか?」


 明るい笑顔をこぼした新人に、追立を除く制服たちがにこやかに頷く。


「来てくれる? 良かったあ。日にち決まったらまた連絡するね!」


 川島は、はしゃぐように笑うと、湯気の立つコーヒーを幸せそうに飲んだ。そして、追立と掛け合い漫才のような会話をひとしきりした後、賑々しい挨拶を残して去っていった。



 渉外班が静かになると、追立は一気に脱力して鼻から溜息をついた。


「藍原さん、一つだけ忠告しておく」

「秘書さんたちとのお話には、気を付けます」


 ハリネズミのごとく縮こまる佳奈に、シェパード顔は困ったように首を振った。


「大使館の人間は別に問題じゃない。むしろ、あいつ自体がヤバイんだ」

「さっきの川島さん、ですか?」

「あいつは俺よりよっぽど大酒飲みだから。金曜日なんかに一緒に飲んだら、朝帰りだぞ。たぶん……」



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