第4章 陰と陽の狭間で
人脈作り(1)
「今、秋山いる?」
バリトンの声がしたほうへ、佳奈は怪訝そうに顔を向けた。防衛情報本部計画部長の名を呼び捨てにしたのは、左胸にウイングマークを付ける1等空佐だった。
エレベーターホールを挟んで向かいに位置する総務部の長だ。佳奈が採用面接の時に彼と飛行機談義をしたのは、もう一年以上前になる。
総務部長と目が合った佳奈は、ペコリと頭を下げた。しかし、他の班員は一様に顔を曇らせた。
班長の下関がやや緊張した面持ちで腰を上げる。
「う、うちの部長は今、陸幕の会議に出ています。戻りましたら、すぐに連絡入れますので……」
「いい、いい。急ぎの話じゃない」
総務部長は、警戒モードのフグ顔を制すると、にわかに相好を崩した。
「ああ、あの事案絡みじゃないから。ところで、これは何?」
濃紺の制服が指さしたのは、佳奈の机の端に置かれていた小さなホワイトボードだった。写真立てほどのスペースには、メモ書きの代わりに、ブルーインパルスをかたどったマグネットが六つ、三角の形にまとまって張り付いている。
「いかなる時も自分の趣味を追求してるねえ。大変結構」
「あの、それは……」
言いかけて、佳奈は下を向いた。渉外班の面々に小さなブルーインパルスをもらってから、まだ十日も経っていない。ロシア国防武官に関するその後の話は、班の誰からも何も聞かされていないが、彼らの無言の励ましを感じては、まだ時々涙が出そうになる。
「うちの班のシンボルなんですよ」
「同じ六人なので」
佳奈の代わりに、アマガエル顔の3等海佐と熊のように大柄な1等陸尉が争うように応えると、総務部長は一瞬、不思議そうに二人を見た。そして、「それは嬉しいねえ」と目を細めた。元戦闘機乗りの航空自衛官としては、光栄に思うところらしい。
機嫌をよくした彼が青と白の飛行機のうんちくを語り始めた時、部屋の出入り口にスキンヘッドのキングコングが姿を見せた。
「何しに来た加藤。俺に用かっ」
「ちょっとな。内局から変な話を仕入れた」
「どうせまた面倒事だろ」
二人の部長は、にわかに悪だくみをする子供のような顔になると、ひそひそと話しながら、パーティションで仕切られた個室へと入っていった。
上半身を伸ばしてその様子を観察していた荒神は、猛禽類的な目を鋭く光らせながら、下関のほうにゆっくりと顔を寄せた。
「意外と仲いいんですね、うちの部長と総務部長。あの件で派手に喧嘩したんじゃないんですか」
「面と向かって喧嘩できるくらい、仲いいんだよ。防大(防衛大学校)の同期らしいし」
ぼそぼそ話す荒神に合わせて、下関も口を尖らせて声を低める。
「加藤1佐も、ああ見えてうちの部長と同じくらい豪胆なトコあるから、ウマが合うんじゃない? 喧嘩になると二人ともマジ切れしちゃって、止めるの大変だけど」
「うちの部長相手じゃ、総務部長は勝ち目ないんじゃないですか?」
月野和が熊のように大きな体を乗り出してくると、下関は「そうでもないって」と眉を寄せた。
「あのヒト、うちの部長と並ぶと細めに見えるけど、背は同じくらいデカいでしょ。それに、剣道か何かの段を持ってるらしいよ。棒でも持たせたらたぶん互角。去年の納会の時なんかさ、あの二人そろって、『二人合わせて七段!』って叫んで一気飲みしてたんだから」
「ひえ~!」
荒神と月野輪が揃って変な声を上げる。
「静かにしろ。聞こえるぞ」
先任の追立は、鼻にしわを寄せた軍用犬のような顔で二人を睨み、人差し指を口に当てた。そして、時々豪快な笑い声が漏れ聞こえてくる計画部長室を見やった。
「まあ、あそこまで強烈じゃなくても、いい人間関係を持っていると強いよな。藍原さんも、カウンターパートに親しい知り合いでもできれば、もう少しやりやすくなるかもしれない」
「カウンター……?」
急に話を振られた佳奈は、聞き慣れない言葉に首を傾げた。
「仕事相手とか調整先って意味だ。うちの場合は、部外なら在京大使館の国防武官室がカウンターパートになるし、部内なら、その武官室と付き合いのある部署がそれに当てはまるかな。内局の渉外室とか各幕(
確かに、電話番の佳奈はそれらの部署名をなんども耳にしていた。しかし、雑務程度の仕事しか任されていない新人の出番は、大抵、電話の取り次ぎだけで終わってしまう。
「折を見てカウンターパートの人間と親しくなっておくと、細かな事務処理ひとつにしても話が早くなるし、急な頼み事をしてもすんなり対応してもらえる。当然、それなりの『お返し』をする必要はあるけどな」
「調整先に似たような立場の知り合いが一人いると、いいですよね。何かと情報も得やすいですし」
追立より勤続年数が長そうな月野輪が腕を組んで唸ると、下関がフグ顔でうんうんと頷いた。
「そういうトコに女の事務官さんっていないのかな」
「一人、心当りがあることはありますが……」
言いかけて、追立は珍しく口ごもった。いつもはクールなシェパード顔の眉が、やや八の字になっている。
「それって
「そうです。情報課の武官業務班にいるんですが、かなり破天荒なタイプなので、藍原さんにはちょっと……」
「破天荒なら負けねーよな」
荒神が佳奈を見てニヤリと笑った。下関も面白そうに口を尖らせる。
「どんな方向に破天荒なわけ?」
「東欧系の血が混じってそうな顔してまして、まあ、基本はいい奴なんですがね。子供の頃に親の仕事でドイツにいたそうで、その時にドイツ軍のレオパルト戦車を見て感動してそれで陸自を志した、っていう変わり者なんですよ」
「そりゃすげえ!」
渉外班の制服一同が、部屋中に響く笑い声を上げた。
「でもそのヒト、何で事務官で入ったんだろね? 制服着ればよかったのに」
「陸自に入っても戦車には乗れないからですよ。今でこそ
班長に向かって肩をすくめる追立を、佳奈はまじまじと見た。妙に既視感のある話だ。戦車のことは全く知らないが、その『レオパルトの彼女』とは何となく気が合いそうな予感がする。
「戦車中隊がいる所なんて、希望出せばいくらでも行けそうですけどねえ」
月野輪はゲラゲラ笑ったが、追立は顔をしかめて首を横に振った。
「奴は語学職採用なんだよ。ドイツ帰りの帰国子女だからドイツ語はペラペラで、英語も同じくらいできる。他にあと二、三か国語は片言で使えるらしい。しかし、駐屯地にそういう人間を持ってきてもしょうがないだろ?」
「芸達者も良し悪しなんですね。何歳くらいの人なんですか?」
「入省して五年目あたりだから、たぶん松岡さんと同じくらいだろうな」
ふいに出てきた名前に、佳奈はぎくりと身を強張らせた。頭の中に浮かんでいた『レオパルトの彼女』のイメージが、戦車をバックに颯爽と佇む迷彩服の女性から、佳奈を憎々しげに見ていた前任者の姿に変わる。
「オススメするとは言い難いが、仕事ができる奴なのは間違いないから、顔合わせして損はないだろうな。近々、用事ができた時にでも話を入れてみるよ」
「あの、ありがとうございます。でも……」
会うのは、なんだか怖い。その言葉を飲みこんで、佳奈は再びうつむいた。シェパード顔の2等陸佐に「仕事ができる」と言わしめる女性職員は、大学を辞めて高卒枠で入省した自分を、どんな目で見るのだろう。
「藍原さん」
いつもより少し低い声で佳奈を呼んだのは、班長の下関だった。
「人間関係を少しずつ作っていくのも、新人さんの大事な仕事だよ」
「……はい」
「先任の観察眼は鋭いから、彼が『いい奴』って言うなら心配ないよ。たぶんね。それに……」
少し照れくさそうに口を尖らせた1等海佐に代わり、古池がやや離れ気味の大きな目をパチパチとさせながら、佳奈の机の上でデルタロールを描く小さなブルーインパルスを指さした。
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