小さなブルーインパルス(1)
佳奈はベッドの上で丸まっていた。窓から鮮やかな青空が見える。それを見るのが悲しくて、薄い掛け布団を頭まで被った。
去年の十一月三日は、土砂降りの雨だった。国家公務員採用試験の一次試験に合格したものの、志望先の採用面接を受けられるかと、不安な気持ちでその日を過ごした。
あれから一年、念願かなって就職した職場を、辞めたいと思うことになるとは……。
ロシア国防武官が由々しきファックスを送りつけてきてから四、五日ほど過ぎた頃、渉外班長の下関から突然、「月末まで休んでいい」と告げられた。半強制的な口調だった。
言われるままに仕事を休み、月が変わると、いつもの朝が苦しくて、外に出られなくなっていた。職場に連絡を入れようとすると、息が詰まって声が出なかった。仕方なく、登録してあった上司の官用携帯のメールアドレスに、欠勤の連絡を入れた。返信は「お大事に」の四文字だけだった。本当は「もう来なくていい」と返したかったのかもしれない。
両親には、季節外れのリフレッシュ休暇をもらったと、見え透いた嘘をついた。部内でも他言無用と言われたことを、とても打ち明けることはできない。
無言で家事をする自分を心配そうに見やりつつ何も聞かないでいてくれる母親の気遣いが、辛い。
たびたび航空機の大きなエンジン音が聞こえる。家から徒歩三十分ほどの所にある入間基地で、航空祭に参加している飛行機が、次々と展示飛行を披露しているのだろう。午後にはブルーインパルスが青空を舞うはずだ。
青と白の飛行機がいる世界へ、ほんの少しだけ近づきたかった。飛行機の見える職場で働いてみたかった。
しかし、そんなささやかな夢を心に思い描くことすら、もう許してはもらえないような気がする――。
*******
「で、例の件ですが」
綺麗に片付いた佳奈の席のほうをちらりと見やった先任の追立は、フグ顔を机の上に載せて脱力する上司のほうにわずかに身を寄せ、声を落とした。
「どうにか落ち着いたんですか?」
「まあ、基本的には『表沙汰にしない』ってことでケリがついた」
下関は、丸い目だけを追立のほうに動かして、憂鬱そうに応えた。
「じゃ、特に責任問題にはならずに?」
「微妙なトコだね。取りあえず、藍原さんが『注意処分』になるのは回避できたけど。新人で経歴に傷がつくなんて、可哀想だし」
「あの課長がいなくなった後で、良かったですよ。ああいう奴は、不都合があったら迷わず部下を一人切って、自分が生き延びようとしますから」
渉外班が属する情報企画課の長であった辻は、九月初日に突然、防衛情報本部を去った。
三十代後半のキャリアが年度末以外の時期に異動するケースは、さほど多くはない。敵対派閥の副本部長を陥れるつもりが逆に相手に先手を打たれたのだろう、というのが下関たちの見方だった。真偽のほどは分からないが、二か月経っても後任が決まらないところを見ると、用心深くなった副本部長が己の手下をじっくり人選している可能性は否定できない。
「実のところ、『担当者を出せ』って言う奴もいたんだけどさ、うちの部長が『担当者とロシア武官との接点を作ったのは自分だから』って突っぱねて……」
「部長、大丈夫ですかね」
追立の疑問に、下関は無言で肩をすくめた。
「班長は被害ありませんでした?」
「私は部長ほどじゃ……。まあ、もう聞かないで。二人とも不定期異動にはならずにすんで良かったね、ってことで」
元気なく笑うフグ顔の横で、荒神は怒れる猛禽類のように眉を吊り上げた。
「そもそも、あの話は総務部が持って来たんじゃないですか。今回の件の『担当者』っていったら、総務部のあのイタチっぽい奴になるんじゃないんですか」
「それもねえ、うちの部長と総務部長の間で、ちょっと揉めたんだよ。二人とも、自分の部下がスケープゴートにされて黙ってるタイプじゃないから。親玉の前で喧嘩になっちゃってさ。結局、副本部長が『若い者については不問に処す』ってことでまとめてくれて」
「サイバー防衛隊との調整はついたんですか?」
月野輪が、熊のような身体に似合わずひそひそ声で尋ねると、下関も声を落として身を乗り出した。
「それなんだけどさ、怒りまくってた総務部長が、こっちの『担当者』が藍原さんだと知った途端に、急に協力的になったんだよ。サイバー防衛隊とその上の指揮通信システム隊、だっけ? そのどっちの隊長とも顔見知りだから、って自ら調整役を買って出てきて、うちの部長と一緒に頭下げに行ってくれたらしい。藍原さん、新人なのにすごい人脈持ってると思わない?」
「たぶん飛行機繋がりですよ。『オタクは身を助く』ってやつですかねえ」
月野輪がニヤリと笑う横で、荒神はやや顔色が悪くなった。
「結局、『三割事実の七割ガセ』って感じの内容をロシア側にやって、それで終わり」
「うまく騙されてくれますかね?」
「向こうだって、ビザの本来の対価がどの程度なのかは承知してるよ。一応、各幕の関係者には、現地の防駐官(防衛駐在官)に注意喚起してくれるように内々に頼んだけど」
「身辺に気を付けろって?」
「そ。理由なくそういうメッセージだけ受けたら、モスクワにいる彼らはさぞ心細いと思うけど……」
ごくりと唾をのむ班員たちを見回した下関は、再びフグ顔を机に載せた。
静まり返る渉外班のところへ硬い足音を立ててやってきたのは、黒い上下の制服を着た2等海佐だった。
「下関1佐。今、よろしいですか」
「あー、一番ヤな奴が来た……」
下関は身を起こそうともせず、げんなりした顔を山本美知留に向けた。山本は、近くに置いてあったパイプ椅子を班長席の傍で勝手に広げると、そこに躊躇なく座った。
「二つ、申し上げたいことが……」
「分かってる」
「ロシア大使館の件、なぜ
「答えるまえに、ひとつ聞いていい?」
下関は、口を尖らせて相手を睨んだ。
「その話、誰から聞いた? かん口令引いてたのに。まさか、うちの藍原さんをシメたんじゃないだろうね?」
「何があったか、聞いただけです」
「アンタの場合は、『聞いた』じゃなくて尋問だろ」
一階級上の相手に嫌味を言われても、山本はまるで怯む様子もない。
「更衣室かトイレで見かけると、いつも泣いてるんですから。誰だって、何があったか聞きますよ」
「ああ、もっと早く休ませれば良かった」
下関は、しぼんだフグのように机に突っ伏した。
「この件、女性陣で他に知ってるヒトいそう?」
「更衣室での話題には上がってないですね」
「ロシアの件は、うちの部長と私で落としどころ付けて、もう終わったんだ。今さらかき回さんでくれる?」
「……分かりました」
不服そうに了承した山本は、「二つ目なんですが」と言って、無人の末席を見やった。
「藍原事務官は、もともと総務部で、平たく申し上げると私の管理下で勤務してもらう前提で、採用したんです。それを、渉外班で穴が開いて困っているというので、急遽そちらに仮配置になりましたのに……。このまま辞められたら、どうしてくれるんですか」
「アンタ……、ホントに容赦ないねえ」
能面のように冷たい顔で迫る女性自衛官に、下関は大きなため息をついた。
「あの時、私も完全に動転しちゃって、彼女のこと怒鳴りつけちゃったもんなあ。藍原さん、今までこっちの指示を無視して動いたことなんかなかったのに。何で前任者に電話しなかったのか、詳しい経緯をきちんと聞いてやればよかった」
「前任者? 松岡さんとかいう?」
「そ。何で知ってんの?」
山本は周囲をちらりと見回した。そして、下関に「ちょっと向こうで、いいですか」と言って立ち上がった。
席に残った四人の制服たちは、そろって天井を振り仰いだ。
「辞められるのは、……ツライですね」
「どうしたらいいもんかな」
「走れば元気になるタイプじゃないしなあ」
月野輪の呟きに、先任が何か言おうとして、口を閉じる。
「あ、ブルーインパルスに体験搭乗させてやる、って言ったら間違いなく喜びそうですよ。たまに有名人乗っけて飛んだりしてるでしょう。あんな感じの、できないですかね?」
「それは無理です」
「F-15ならどうだ? たまに、整備や管制の人間を体験搭乗させるんだろ? 遊覧飛行みたいなの、やってもらえないのか?」
「一機飛ぶのに、燃料代だけでいくらかかると思うんですか」
陸上自衛官たちの素朴すぎる提案を、荒神はあきれ顔で却下した。
「確かに、燃費悪そうだよな。リッターどのくらい走るの?」
「車じゃないんですから……。おそらく、一秒間に十リッター前後は食うと思います」
「そりゃ凄まじい……」
「それに、体験搭乗は、遊覧飛行じゃないんですよ。基本的には、普通の訓練に参加する複座機でたまたま後ろが空いているトコに「客」を乗せるだけです。「客」にもそれなりの事前訓練を受けてもらいますしね。フライト中の訓練内容は通常通りですから、後ろに「客」がいようがいまいが、平気で6Gでも8Gでもかけますよ。大抵の「客」は土産を持って帰ることに……」
「土産?」
「中身入りのゲロ袋」
「あ、そ……」
陸の二人はげんなりと頭を垂れた。代わりに、ずっと沈黙していた古池が、にわかに顔を上げた。
「荒神3佐、ちょっと、ブルーインパルスのこと、教えてもらえますか」
「だから、ブルーに乗せるなんて話は非現実的だって……」
「現実的かつ低予算でいきます」
アマガエルを彷彿とさせるやや離れ気味の大きな目が、パチパチと瞬きをした。
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