親切なスパイ(3)


 大きな接遇任務を無事に終えた渉外班長の下関は、週末だけでは疲れが取れなかったのか、朝からぐったりとフグ顔を机の上に載せていた。


「忙しいときに、すみませんでした」


 先任の追立が、毛並みの悪いシェパードのようにやつれた顔で、頭を下げる。


「しょうがないよ。ノロってこれから本格化するらしいから、気を付けないとね。イスラエルの件は荒神が見てたから、新しい動きがなかったか確認しといて」


 班長に話を振られた荒神も、空腹のイヌワシのように元気がない。


「すいません、先任。二度ほど武官室から電話がきたんですけど、ちゃんと理解できたか自信なくて。メールにしてくれって頼んで……」

「荒神にも迷惑かけたな。メールに切り替えたのはいい判断だ」


 微妙な労いの言葉に、荒神は苦笑いした。


 班の席がすべて埋まると、不思議と安心する。年の離れた彼らの会話が心を和ませるのだろうか。

 そんなことを佳奈が思っていると、脇から「藍原さん、先週はどうも」と小さな声で話しかけられた。振り向くと、ひょろりと痩せた2等空尉がいた。前の週にビザの話を持ってきた総務部の井立田いたちだだ。


「分析部の人たち、予定通りに出発したそうです。あ、それと、総務部のほうに藍原さん宛てのファックスが来てました」


 彼は、佳奈に二枚の紙を渡し、すばしっこい小動物のように走り去っていった。


 一枚目は英語の送付状だった。しかし、宛先欄には佳奈の氏名が漢字で記入され、メッセージ欄には、なかなか整った日本語で「下関1佐によろしくお伝えください」と記してあった。

 二枚目はすべて日本語だったが、佳奈はその内容を理解できずに首を傾げた。


「班長、サイバー防衛隊って何ですか?」

「サイバー攻撃に対処する専門部隊。それが何?」

「その部隊のことで、問い合わせが……」

「はあ?」


 下関と追立が、同時に素っ頓狂な声を出した。


「何でそんな話がうちにくるわけ?」

「あれは特に秘匿性の高い部隊だ。回答できることなんて何もないぞ」


 サイバー防衛隊とは、自衛隊の指揮通信システムを管理運営する統合部隊のひとつで、防衛省及び自衛隊のネットワークを二十四時間体制で監視し、外部からのサイバー攻撃に対処する、いわば電子専門の部隊である。陸海空の各自衛隊では、これまでにも個々にサイバー攻撃対策を行ってきたが、数年前に一元化され、現在に至っている。



「どこの誰? そんなバカな質問してきた奴」

「ロシア国防武官のエリストラートフ少将です」

「!」


 にわかに、場が静まり返った。


「ちょ、ちょっとそれ、見せて……」


 口を尖らす下関の顔は、明らかに青ざめていた。班の一同が息を詰める中、佳奈は班長席に二枚の紙を持っていった。それを食い入るように読んだ下関は、見る間に警戒モードのフグ顔になった。


「……サイバー防衛隊の人材育成の状況、部内における専門教育の概要、及び、民間からの人材確保の実績に関し、可能な範囲でご回答いただきたく、……って、何でいきなりこんな……」


「ダメ元で聞いてくるにしても、度が過ぎますね」


 追立は、上司が手にする紙を横から覗き見ると、鋭い眼差しを佳奈に向けた。


「藍原さん。これ、なぜ来たのか、心当たりある?」

「いいえ」

「まあ、そうだよな。……しかし妙だな。こういうのは普通、何か先に恩を売って、その見返りを要求するってパターンだが」


 犯人のニオイを探る軍用犬のように思案する追立の顔を見ながら、佳奈は、ロシア国防武官の愛想のいい声を思い出した。



『可憐なアイハラさんのためなら、お安い御用ですヨー』




「あ、もしかして、ビザが……」


 佳奈は、出張者のビザ発給をめぐる一連の出来事を話した。最後まで言い終わらないうちに、下関は、最高に膨れたフグ顔でぶるぶると震えだした。


「な、な、なんちゅう……」


 口がきけなくなったらしい上司の隣で、追立が「それだ!」と叫んだ。


「ビザ発給で便宜を図ってやったからお返しをしろ、ってことなんだよ。あいつ、藍原さんじゃ意図が伝わらないだろうと思って、わざわざ『班長によろしく』ってメッセージまで書いたんだな」

「お返し、ってどういうことなんですか?」

「前にも言ったかな。情報関係者は、敵同士でも味方同士でも、『ギブ・アンド・テイク』の付き合いがある。向こうはビザの件で『ギブ』したから、そのお返しにサイバー防衛隊のネタをくれ、ってことなんだよ」

「そんな……」


 佳奈の脳裏に、青い目を細めてニコニコ笑っていたロシア陸軍少将の顔が浮かんだ。調子よく世辞を織り交ぜた流暢な日本語が、悪魔のささやきのように頭の中にこだまする。


「ビザのお返しがサイバー防衛隊なんて、全然、割に合わないじゃないですか。無視できないんですか」


 怒りを露にする月野輪に、追立が険しい顔で首を振った。


「無視すると、仕返しされるかもしれない」

「仕返し?」

「ある種の嫌がらせだよ。真っ先に狙われるのは、モスクワにいるうちの防駐官(防衛駐在官)だ。日露間で何かあると、妙ないちゃもん付けられて、国外追放になったりする。旧ソ連時代には、日本でスパイ事案を摘発したら現地の防駐官が毒を盛られた、ってこともあったらしい」


「じゃあ、どうしたら……」


 荒神が口を挟んだ時、ようやく口がきけるようになった1等海佐が、突然叫んだ。


「何で勝手に電話なんかしたの! そういうの、先に報告してくれなきゃ!」


 普段は物腰柔らかい下関の怒鳴り声に、佳奈は言葉もなく立ち尽くした。

 詫びれば済む問題ではない事態だということは分かる。しかし、どうしたらいいのか、分からない。


 倒れそうになる新人をちらりと見た荒神は、さらに何か言い募ろうとした上司を制止するように割って入った。


「藍原さん、報告してましたよ。アメリカの『客』が来た初日、班長がここにちょっと顔出した時に」

「それは覚えてる。でも、出張先がロシアなんて聞いてない!」

「班長、話の途中で出て行っちゃったじゃないですか」


「荒神!」


 イヌワシ頭の言葉を遮ったのは、先任の追立だった。


「何だ、そのヒトゴトみたいな言い方。お前だってその場にいたんだろ? ロシアのビザがどうのこうのって話を聞いたお前自身は何してたんだ! 何のために幹部がいるんだ!」

「その時、自分は確か、イスラエル大使館から電話が入ったんで、先任の代わりにその対応してました」

「……俺のせいだって言いたいのか」


 シェパード顔とイヌワシ頭は、同時に立ちあがり、今にも取っ組み合いを始めそうな勢いで顔を突き合わせた。それを止めようと、熊も席を立った。

 三人の制服が騒がしく言い争うのも構わず、下関はふくれっ面で首を振った。


「相手がロシアだと分かってて気安くものを頼むなんて、あり得ないよ。前任者がそうしろって言ったの?」

「前任者には……、連絡取りませんでした」


 深くうつむいた佳奈の目から、涙がこぼれた。


「何で! 何でそこで自己判断になるわけ? 藍原さん、あなた勤め始めてまだ半年なんだよ――」


 初めて聞く下関の激しい叱責の声が、少し離れたところで言い争う制服たちの言葉が、数か月前に自分を「迷惑だ」と言い捨てた前任者の残像が、佳奈の頭の中をかき乱し、意識を混乱させる。


「班長、ちょっと状況を整理しましょう。発端は『総務部からきた話』ですよね」


 いつの間にか己の椅子を引きずって傍にきていた古池は、訥々とつとつとした口調で下関を遮ると、呆然と宙を見る佳奈をその椅子に座らせた。

 その時、渉外班のすぐ隣で、ドアを蹴破ったかと思うような大きな物音がした。


「やっかましい! 何をガタガタやってる!」


 ドスドスと足音を立てながら計画部長室から出てきたスキンヘッドのキングコングは、渉外班のほうをジロリと睨んだ。下関が、にわかに悲しそうな目で佳奈を見る。そして、意を決したように、管理者である計画部長のところへ駆け寄った。


 コトの次第を聞いた計画部長の秋山は、部屋の空気を震わせるような雄叫びを上げた。そして、まだ口論しているシェパード顔とイヌワシ頭を一喝した。


「そこ! 揉めてる場合か! 今は我が国の……」


 言いかけて、ギョロ目がちらりと、フロア隅にある情報企画課長の個室があるほうを見やる。


「あそこは九月一日いっぴ以降、です」


 古池がぼそりと呟くと、秋山は「そうだった」と顔をしかめ、咳払いして声を落とした。


「とにかく、我が国のサイバー防衛と現地の防駐官が危険に晒されるかもしれないって状況なんだぞ」


「取りあえず、ロシア武官にはどう対応しましょう?」


 下関が、口を尖らながら、不安そうにキングコングの様子を窺う。


「……サイバー防衛隊かその上の指通しつうシ隊(指揮通信システム隊)に話を入れて、ロシアにくれてやるネタをどうするか、協議せんといかん。その前に、防衛情報本部うちの中で、どこまで話を上げるか……」


 秋山は、苦虫を噛み潰したような顔でブツブツと独り言ちた。やがて、揉め事を持ち込む相手が決まったのか、「ちょっと行くか」と言って歩き出した。下関が、口を尖らせたまま頭を下げた。


「よ、よろしくお願いします」

「てめーも一緒に行くんだよ。現場の長はお前だろうが!」


 ギクっと目を丸くして頬を膨らました上司がキングコングに連行されるのを見た佳奈は、思わずその後を追った。


「武官室に電話をかけたのは私です。私も……」

「若いもんが出てきてどうにかなる話じゃない。後は俺と下関でやる」


 秋山は、血走ったギョロ目で、部屋の戸口まで駆け寄ってきた佳奈と制服たちをぐるりと見回した。


「お前らは、どうしてこういう事態になったのか、よく考えてろ。それと、この件は一切、他言無用。いいなっ」


 地響きを立てて歩く計画部長の後を、相対的に小さく見える渉外班長が慌てふためきながら追いかけていく。やがて、二人はセキュリティドアの向こう側へと消えていった。


 自動ロックのかかる金属音が、佳奈の胸に鋭く突き刺さった。





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