親切なスパイ(2)

「ゥルッスィア大使館デッス」


 受話器から強烈な巻き舌の発音が聞こえてきた。

 ロシア国防武官エリストラートフの名刺に書いてあった電話番号は、国防武官室直通の番号ではなく、大使館の代表番号だったらしい。代表番号の電話番くらい日本人スタッフを置いていて良さそうなものだが、運悪く担当職員がいなかったのだろうか。


「国防武官室をお願いします。えっと、ミリタリー・アタッシェ・オフィス……」


 言い終わらないうちに、電話口から保留音が流れてきた。それを聞きながら、佳奈は今更ながら不安になった。

 国防武官室に日本人スタッフか日本語のできる職員がいればいいが、そうでなければ、コトの次第を英語で説明しなければならない。佳奈にとっては、かなり難易度の高いミッションだ。



「国防武官室です」


 きれいな日本語だ。佳奈は思わず安堵の溜息を洩らした。


「お忙しいところすみません。防衛省防衛情報本部の藍原と申します」

「おー。あの可憐な飛行機大好きのお嬢さんじゃありませんか。国防武官のエリストラートフです。あなたからお電話をいただけるなんて、嬉しいですネー。今日はどのようなご用事ですか? ワタクシでお役に立つことなら、何でもいたしますヨー」


 いきなり御大が電話に出るとは思わなかった。一瞬迷ったが、選択肢はない。


「実は、ロシアに出張予定の職員が、ビザをもらえなくて困っているんです。何か情報の行き違いがあるみたいで……」

「おー。それは大変です。ワタクシが何とかいたしましょうネー」

「ありがとうございます。でも……」


 佳奈はそこで口ごもった。ビザ発給などという事務処理的な話を、陸軍少将の地位にある彼に直接頼んで失礼ではないのか。

 正直にそう言うと、エリストラートフは「いいんですヨー」と人懐っこく返してきた。


「武官室で日本語が分かる人間は、あいにくワタクシ一人なんですよ。ワタクシの部下たちは、英語も話せません」


 大国ロシアにしてはかなりお粗末な話だが、意思疎通できる人間が一人しかいないのであれば仕方がない。佳奈は、総務部の2等空尉から聞いた話を、そのままエリストラートフに説明した。


「そーですかー。大丈夫ですよ。取りあえず、前に領事部に出した書類と同じものを、全部こちらにファックスかメールで送ってもらえますか?」

「本当にすみません。あの、何日ぐらいで発給していただけそうですか? 週明けには出発の予定になっていて……」

「公用旅券を持って窓口に来ていただければ、三十分もかからずに終わりますよ」

「出張者が窓口に直接行ったほうがいいですか?」

「いーえいえ、どなたでも結構です。窓口で『国防武官のエリストラートフから話が入っているはずだ』とヒトコト言ってもらえれば、すぐに対応するように手配しておきますので」

「ありがとうございます! よろしくお願いします!」


 佳奈は、目の前にいない相手に何度もお辞儀をした。ロシア国防武官は、「可憐なアイハラさんのためなら、お安い御用ですヨー」と言って、電話を切った。


 佳奈は、エリストラートフの名刺を持って総務部へと走っていった。ひょろりと痩せた2等空尉は、コトの次第を聞いて安堵の笑みを浮かべると、出張者から預かっていた書類一式が入っているらしいホルダーの中を漁った。


「全部『紙』でもらってるから、ファックスのほうが早いかな。あ、送付状が日本語のしかないですけど……」

「たぶん大丈夫だと思います。先方は漢字も分かるので。私が宛名とか書きます」

「ああ、良かったあ。窓口には自分が行きます」


 佳奈が防衛省のロゴが入った送付状に必要事項を書き入れると、それを受け取った2等空尉は、「ホントにお世話になりました」とせわしなく頭を下げ、部屋奥にある複合機へとすばしっこく走っていった。



 佳奈が自席に戻ると、荒神がまだ受話器を抱えて、しどろもどろの英語をしゃべっていた。それに奇妙な親近感を覚えつつ、再びロシア大使館に電話を入れた。


「ファックス、来てますヨー。一枚目の紙、アイハラさんの手書きですか? 字も可愛らしいですネー。これから領事部のほうに話を入れるので、しばらくしたら、どなたか手続きにいらしてくださいネー」


 エリストラートフの愛想のいい日本語に、佳奈はほっとして、もう一度礼を言った。




 ロシア軍参謀本部情報総局、通称GRUゲーエルウー所属のセルゲイ・エリストラートフ陸軍少将が、ベテラン情報員の本性を現したのは、それから五日後のことだった。



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