親切なスパイ(1)
「シャンパンが好きとはね。佳奈も大人になったんだな」
八月初旬、娘の誕生日を祝う藍原進司は、主役のリクエストに応じて用意した小さなシャンパンの栓を抜いた。ワイングラスに金色の液体を注ぐと、出来合いの総菜が多い食卓も少し華やかになる。
グラスを合わせた二人は、ほのかに立ち上る甘い香りを静かに楽しんだ。
「大使館のレセプションに行ったときに、初めて飲んだんだよ。ワインより、シャンパンのほうが飲みやすいみたい」
「佳奈がいるのは、航空自衛隊の、……
「よ、よく分かんないけど……」
佳奈は父親から目をそらし、シャンパンを飲んだ。
両親は未だに、「航空
「いろんな体験ができて楽しそうじゃないか」
「う、うん……」
「仕事仲間にも恵まれているようだし」
「うん」
二番目の言葉にだけは、嘘偽りなく頷ける。所属する班の面々は、見た目はかなり個性的だが、間違いなく温かな人間ばかりだ。
佳奈の明るい笑顔に、進司も嬉しそうに目を細めた。
「いい人間関係は何よりの財産だよ。こればっかりは、個人の努力だけではどうにもならない運のようなところがあるからね。いい出会いにも、乾杯だ」
再び、父娘のグラスが軽やかな音を奏でる。
「お母さん、もう寝てるかな」
「病院は夜が早いからね。検査入院と佳奈の誕生日が重なって、残念がっていたよ」
「明後日には退院できるんだよね? 今度の週末、もう一回『お誕生日』やってもいい? 三人で乾杯したい」
「ケーキより乾杯なのか。酒好きな大人になったな」
*******
東京の夏は長い。十月半ばに入っても、日中の都心はまだかなり暑かった。しかし、同月一日付けで冬服に衣替えとなった制服の面々は、「クールビズ」より規律を優先する職場で、ネクタイを外すことも袖をまくることも許されず、上着を脱ぐぐらいしか暑さをしのぐ手段がない。
中でも、額に汗をにじませて走り回っていたのは、渉外班長の下関だった。先月末から米国国防情報局トップの来日に関わる連絡調整を取り仕切ってきた彼は、いよいよその当日を迎え、朝からほとんど自席に座る時間もないようだった。
古池と月野輪もほぼ全日程で接遇に駆り出され、渉外班には荒神と佳奈しか残っていない。留守番筆頭になるはずの先任の追立は、十時を過ぎても職場に現れなかった。
昼前になり、携帯電話を手にした下関が疲れた顔を渉外班に見せると、ちょうど荒神が内線電話の受話器を置いたところだった。
「あ、班長。先任、やっぱりノロウイルスだそうです」
「ホントに? じゃ、彼、今週いっぱいはダメってこと? この人手不足の時にまいっちゃうよなあ。陸の人は走れば何でも治るんじゃないの?」
「下痢じゃ走れないですよ」
荒神のジョークを笑う余裕もないのか、下関は口を尖らせたまま、げんなりと溜息をついた。
「私もこの後、外に出て、そのままずっと親玉たちに拘束されるから、うちの班、三日間ずっと二人だけになっちゃうなあ」
「留守番、拝命いたします」
イヌワシ頭は、後頭部の毛を逆立てて、頼もしく返答した。
「通信所の視察は、明日明後日の一泊二日ですよね」
「あー、でも、横田経由で戻るから、明後日こっちに顔を出せるのは四時過ぎになりそう。そうだ荒神、先任が担当してるイスラエル軍の研修団の話、三日間だけカバーしてくれる? 中身を手短に説明するから」
「調整先はどこになります?」
「イスラエルの国防武官」
「あ、じゃあ、英語……」
荒神の声は急にしぼんだ。先任の机の中を漁る班長の傍にのろのろと歩み寄る彼は、雨に打たれた猛禽類のように覇気がない。その姿を、佳奈は心配そうに見やった。
半年ほど渉外班に勤務して何となく気付いたのだが、航空学生出身の荒神は、他の佐官たちに比べ、あまり英語に堪能ではないように見受けられた。パイロットと管制官がやり取りする航空無線は基本的に英語だが、いかんせん特殊すぎるために、それを日常の英会話に応用するのは難しいのだろう。
かといって、ろくに大学で勉強できないまま退学した自分に、その仕事を引き受ける能力はないが……。
「あのー、忙しいトコすいません……」
遠慮がちな小さな声が、佳奈に話しかけてきた。声の主は、ひょろりと痩せた三十前後の尉官だった。あまり見慣れない顔だ。
「総務部総務班の
佳奈は下関のほうを見た。朝からドタバタとせわしない彼は、口を尖らせて荒神と話し込んでいる。
「渉外班、何か忙しそうですね」
「『お客さん』の接遇があって。私でよければ、取りあえずお話を伺います」
佳奈の申し出に、声の小さな航空自衛官は頼りない笑顔を見せた。
「実は、分析部の人間が海外出張に行くことになって、自分がその事務処理をしてたんですけど、二週間以上前にビザ申請して、それを一昨日取りにいったら、発給できないって言われたんですよ。窓口で、『受け入れ機関からの招聘状がないとダメだ』って」
佳奈は露骨に当惑の表情を浮かべた。旅券ビザの話など、全く関わったことがない。
「分析部の話では、三人の出張者のうちの誰かの名前が、渡航先の国のブラックリストにでも載っている人間と同姓同名か似通ったアルファベット表記で、要注意人物と勘違いされてるんじゃないかって。今、現地の防駐官(防衛駐在官)を通じて関係先に招聘状を出してくれるように頼んでるらしいんですけど、出発まで土日を挟んであと五日しかなくて」
「じゃあ、もうギリギリ……」
「それで、その出張者から、大使館とコネクションがあるところに相談してみてほしいって言われたんですよ。で、そういうのって、
確かに、佳奈の所属する渉外班は、在京大使館の国防武官室との付き合いがある。佳奈は、下関と荒神の話にキリがついた瞬間を見計らい、声をかけた。
「班長。海外出張のビザのことで、総務部の方が……」
「ビザ?」
「出張者のビザが下りないそうで、渉外班から大使館に話を入れられないかと……」
「そういう話、前にもあったなあ。うちから武官室に頼むことはできなくもないけど、内局経由でプッシュしてもらったほうがもっと早くて確実かも。いよいよダメな時は、外務省に依頼することになるけど。ちょっと前任者に聞いてみてくれる? あ、渡航先ってどこの……」
言いかけた下関の手の中で、官用の携帯端末が鳴った。
「はい、下関1佐……。えっ、もう終わっちゃったの? すぐ行くから、ちょっとその場でおエラさんたち休憩タイム取っててもらって。それと、各幕に……」
下関は、普段の倍ほどのスピードで話し、腕時計を見た。
「あ、もうこんな時間か。荒神、他になんかある?」
「ありません」
「じゃ、留守番と先任の仕事も頼むね。藍原さんもよろしく。何かあったらこの携帯に」
下関は、黒すぎる髪を汗で湿らせながら、バタバタと部屋を出て行ってしまった。その姿を見送りながら、荒神は溜息をついて独り言ちた。
「俺、電話の英語、ちょー苦手……」
ぼやく言葉が終わらないうちに、班長席の電話が鳴った。応答した荒神は、獲物を落とした猛禽類のように、困惑した様子で目をカッと見開いた。
「あー、ルーテナント・カーネル・オッタテ・イズ・ノット・アベイラブル・チュデイ……」
先任の終日不在を伝える英語は、おそろしくたどたどしい。不運にも早速、引き継いだばかりの案件の調整先から電話がかかってきたらしい。
「な、なんか修羅場ってるけど、さっきのビザの話、頼んでいいですか?」
「はい」
ますます声が小さくなる2等空尉にそう応えてから、佳奈は胸の奥が急に重くなるのを感じた。班長の言葉が頭の中でエコーする。
『ちょっと、前任者に聞いてみてくれる?』
前任者の松岡早紀に、問い合わせの電話をしなければならない。彼女とはなるべく接したくないが、仕事であれば仕方がない。
「あ、出張先の国はどちらですか?」
「ロシアです」
「分かりました。取りあえず、前任者に確認して、またそちらに連絡します」
総務部の尉官は、ほっとした顔で会釈をすると、すばしっこい動物のように小走りで所属部へ戻っていった。
佳奈は下を向いて、ゆっくり息を吸った。荒神のしどろもどろの英語がやけに耳につく。
こんな時、前任者の松岡なら、難なく通訳支援をするのだろう。その力がない自分が悔しい。敗北感のようなものが、胸の中に広がる。
ふと、透明なデスクマットの下に入れてあった名刺が目に入った。大使館のレセプションに行った時に、ロシア国防武官のセルゲイ・エリストラートフからもらったものだ。
彼の人懐っこい顔と淀みない日本語が思い浮かぶ。
『何かワタクシでお役に立つことがありましたら、いつでもご連絡くださいネ。可憐な日本のお嬢さんのためなら、何だっていたしますよ。またぜひぜひ、お話したいですネー』
佳奈は、受話器を上げると、外線発信のボタンを押した。
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