縄張り争い最前線(3)
無音になった部屋の中で、佳奈は恐る恐る観葉植物の陰から顔を出した。
テーブルの上に置かれたままのグラスが、目に入った。先ほどのカオス状態を象徴するかのごとく無秩序に並んでいるそれらを、取りあえず隅に集める。どこかで盆を借りてこないと、と思ったところで、キングコングの吠える声が聞こえてきた。
「全く、あのクソ課長は何考えてんだ! 一度決まったものをひっくり返して、『客』の前でうだうだと……。あっちの武官、帰り際に俺になんつってたと思う? 『エライコッチャデスネ』だとさ。どこでそんな日本語覚えたんだか知らねーが、こっちはホントにいい笑いもんじゃねーか!」
まあまあ、と部長の秋山をなだめた渉外班長は、ふと思い出したように口を尖らせた。
「うちの藍原さん、大丈夫だったかな。初仕事があんな荒れた会合じゃ……」
「それがいなかったんですよ。三時少し前に一緒に部屋に入ってたのに」
秋山の後に続いて計画部に戻ってきた先任の追立は、険しい顔で部長室を見やった。そして、ドアが開けっぱなしになったままの個室の中に佳奈の姿を見つけると、噛みつきそうな勢いで駆け寄ってきた。
「藍原! どこ行ってたんだ!」
普段はまず声を荒げることのない先任の怒鳴り声に、キャリアの悪口を喚いていたキングコングは、口を開けたまま沈黙した。当の佳奈は、窓際まで飛びのき、震えながら観葉植物と衝立がある辺りを指した。
「何でそんなトコにいたんだ。部長の傍にいたほうが聞き取りやすいだろうが」
隠れるような真似をした理由は、言いたくない。佳奈は黙って下を向いた。仁王立ちになるシェパードの後ろから、フグ顔がひょこりと覗いてきた。
「そんな声出さなくたっていーじゃないの。だいたい、あの有様じゃ、メモ取りどころじゃなかったでしょ。があがあ騒いでるのが外まで聞こえてたよ」
「途中まで、取ってたんですけど、辻課長が話し出したあたりから、訳わからなくなっちゃって……」
「クソ課長が全部悪いんだ! 東大卒だか何卒だか知らねーが……」
再び罵詈雑言を並べ始めたキングコングを先任に押し付けた渉外班長は、佳奈に向かって、困り顔で口を尖らせた。
「初仕事がとんでもないコトになっちゃったね。そういえば、辻課長と一緒に入った事務官の人、松岡さんだったみたいだけど」
「はい。内局調査課の部員の代理で来たって、言ってました」
「そっか。……松岡さん、なんかすっかり『向こう』のヒトになっちゃったね」
ぼそりと呟いた下関は、心なしか淋しそうに見えた。
「『向こう』って、何ですか?」
「内局だよ。『制服対背広』って言葉、聞いたことないか?」
キングコングを少しクールダウンさせることに成功した先任が、長年続く自衛官とキャリア官僚との対立を佳奈に説明した。
一般の省庁では、総合職として入省したキャリア官僚が組織の骨格となり、キャリア以外の人間は、あくまで彼らの補佐として存在する。しかし、防衛省には、防衛政策に携わる官庁組織と実働部隊である自衛隊の二つがあり、キャリア官僚が前者の中核となる一方、後者の運用は自衛隊の高級幹部が担っている。
この二つの権力は、政策サイドと現場サイドという立場の違いもあり、意思疎通がスムーズにいかないことも多く、カネ・モノ・ヒトをめぐりせめぎ合うことになりがちだ。
さらには、旧防衛庁時代に、シビリアン・コントロールの名の下で、いわゆる「背広組」が「制服組」を支配する傾向が顕著だった経緯もあり、制服組の背広組に対する不信感は未だに強い。海外派遣が頻繁に行われるようになった現在では、物理的な利益対立とは別に、対外政策をめぐる意見対立も見られるようになっている。
「まあ、キャリアもいろいろだぞ。クソ課長みたいな奴も多いが、分析部長はキャリアでも結構いい奴だし、副本部長も、『餅は餅屋』って考えの人で、これまでは制服の領域を尊重してくれてた。
秋山はそこで大きなため息をついた。
「それにしても、内局の調査課が介入してくる理由が分からん」
「副本部長が不利になるネタを探る、って言ってました」
まだ窓際に張り付いたままの佳奈の口からこぼれ出た言葉に、三人の制服は揃って目を
「どういうこと?」
「内局の調査課長という人は、副本部長と仲が悪いんだそうです」
「それは初耳だな」
キングコングとフグとシェパードが、背をかがめて、佳奈に視線を合わせる。
「日本と韓国の水面下の協力を表沙汰にして、政治家に副本部長の監督責任を問わせる、という話を、辻課長がしてました」
「狙いは、俺たちじゃなくて副本部長? つまり、内局の意向に沿わないネタを何か探して、新聞社にでもわざとリークして副本部長が叩かれる状況を作り出す、って魂胆か。それじゃ俺たち、派閥争いのダシにされるようなもんじゃねえか。冗談じゃねえ。キャリアの派閥争いなんぞに付き合ってられるか」
「キャリアの連中は、指揮系統より人脈で動くところがありますからね。派閥は重要なんでしょう」
「でもさ! アイツさっき『指揮系統も甚だしい』とかぬかしやがったんだぜ! まさに厚顔無恥たあ、このことだろ!」
再び吠え出す秋山の脇で、先任は、考えをめぐらす利口なシェパードのように首を傾げた。
「日韓の情報共有の件、当初の計画のまま主幹が完全に統合情報部に移った場合、奴らは息のかかった人間を直接送り込んで、監視しようとするかもしれませんね」
「そうするって、言ってました。統合情報部に常勤の事務官を送るって」
「何!」
三人の制服は、そろって声を上げた。
「……その話、どこで聞いた?」
「ここで、ついさっき、辻課長と松岡さんが話してて……」
「意外と不用心なヒトたちだね。藍原さんが新人だからって、何も分からないと思ったのかな……」
頬を膨らませていぶかしがる下関の回りを、追立はぐるぐると歩き、にわかに「ふうむ」と唸った
「奴ら、たぶん藍原さんが見えなかったんでしょう。この葉っぱと衝立の後ろで座っていたら……。彼女、小さいですし」
秋山は、自分の「着替えスペース」があるほうに目をやり、そして、佳奈をじっと見た。
獰猛そうな顔が、歯をむき出してニタリと笑った。
「あのクソ課長と副本部長がつながってないと分かれば十分だ。よっしゃ。俺、ちょっと副本部長にチクってくる。副本部長とはタバコ仲間だから。あの青二才のキャリアなんぞにダシにされてたまるか。副本部長経由で返り討ちにしてやる!」
秋山は、小山のような身体でガッツポーズをすると、ドスドスと足音を立てて部屋から飛び出した。そして、すぐにドスドスと戻ってきた。
「藍原君、グッジョブ! 重大情報に感謝する! アンタ、いい工作員になれるぞ!」
再び地響きを立てて部屋を出て行ったキングコングを見送った佳奈は、青ざめた顔で渉外班長と先任のほうを見た。
「工作員には、なりたくないです」
「あれは、部長の冗談だよ。たぶんね……」
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