縄張り争い最前線(1)


 本格的な梅雨の時期に入ったある日、いつもより早く目が覚めた佳奈は、いつもより一本早いバスに乗った。十五分早いだけで混み方が違う。いつもより少しだけ人の少ない市ヶ谷駅に着くと、やや肌寒く感じる霧雨の中を職場へと向かった。


 事務所の部屋のドアを開けると、やはりいつもの朝より人影が少ないように感じた。渉外班には誰もいない。


 今日こそは一番乗り、と思って自席に座ろうとした佳奈は、部屋の隅に備え付けてあるコーヒーメーカーに水を入れている1等海佐の姿に気付いた。


「班長、おはようございます。私がやります」

「いいの、いいの。何か今日は冷えちゃって、無性に温かいもの飲みたくなっ……」


 言いかけて、下関は小さなくしゃみをした。


「すみません、いつも来るのが遅くて……」

「まだ八時前だよ。全然遅くないって」


 上司にそう言われても、新人としてはどうも落ち着かない。そんな佳奈の心を察したのか、下関は、目を細めて口を尖らせた。


「気を遣われるとかえって困るの。私は、いた電車に乗りたいから早く来てるだけ。うちの班、誰も私より先に来てないでしょ」

「はあ……」

「まあ、部隊だとね、最前線の現場だし、有事には各自が確実に所定の行動を取れるようにってことで、普段から指揮系統も上下関係も堅苦しいくらいきっちりやってるけど、うちみたいなデスクワークの場合は、細かい話にこだわるより、みんなでわだかまりなく意思疎通できるほうが、大事だと思うんだよね」


 気さくな1等海佐は、淹れたてのコーヒーを自身のマグカップに注ぐと、ご機嫌なフグ顔になった。


 上司が作ったコーヒーを飲みながら、佳奈はふと、自分の前任者のことを思った。C棟の地下で会った松岡は、突然の引き抜き話を嬉々として受け入れ、内局に転属していったと聞いた。

 相当に部下思いらしい班長のもとを、彼女はなぜ躊躇なく去っていったのだろう。


       *******



 気配り上司の唯一ともいえる欠点は、勤務時間中に突然、古いネタでなりきりキャラを演じ始めることだった。


「おはよう藍原君。今日の君の任務だが」

「また始まった。今日は十時前だから、まだマシか……」


 先任の追立おったてが時計を見やりつつぼそりと呟いても、下関は全く気に留めていないらしい。


「今回は、昼の仕事だ。三時頃、韓国の国防武官がうちの部長を訪問する予定になっている」

「エレベーターの統制ですか?」

「いや、A棟は来客専用のエレベーターがあるから、統制要員は必要ない。藍原君には、武官と日本側の発言内容を記録して欲しい。やり取りは日本語のみだから問題はないはずだ。向こうが通訳を連れてくることになっている」


 厳しい表情を作って一気に喋った下関は、顔の筋肉が疲れたのか、そこで「ふう……」と一息ついて頬を膨らませた。


「英語圏以外の『客』は、日本語通訳を用意して来てくれることが多いんだよ。やり取りが日本語の会合なら、できそう? 正直なところ、藍原さんにも部分的にメモ取りや記録資料の作成をやってもらえたら、だいぶ助かるんだよね」

「ぜひ、やらせてください」


 佳奈が新人らしいセリフで応えると、下関は嬉しそうに口を尖らせた。


「普通、発言記録を取るのは、正式な会議とか、防衛情報本部うちの親玉のところに表敬訪問があった時ぐらいなんだけどさ、やっぱり、いきなりそういうのじゃ嫌でしょ? それで、うちの部長が、今日みたいな気楽な会合で『初仕事』してみたら、って言い出したんだよ」


 事前練習をさせてもらえるのは、実にありがたい。佳奈は、スキンヘッドのキングコングとスパイ映画好きなフグ顔に、心から感謝した。



 二時半を回り、韓国関係の連絡調整を担当する追立は、佳奈を連れて計画部長室に入った。部屋の主は、大きな執務机の向こうで、ふんぞり返って書類を読んでいた。


「ああ、もう時間?」

「今日は統合情報部の人間も入ってやや大所帯ですので、先に席次の確認を……。それと、藍原に全体の流れを説明してやりたいのですが、よろしいですか?」

「好きにやってくれ」


 再び書類に目を落とした秋山に、佳奈は、メモ取り用の筆記具を胸に抱えたまま、ぺこりと頭を下げた。


「あの、ありがとうございます」

「極めてささやかだが、この間の礼だよ」


 キングコングは、ギョロ目だけを佳奈のほうに動かし、ニヤリと笑った。



 追立は、佳奈に出席者の座る位置を説明しつつ、部屋の隅に並べて置いてあったスツールを動かした。


「国防武官のクォン大佐がここ、その横に補佐官のチェ少佐を座らせて、日本側は……」


 さほど大きくないソファに、日本側出席者のうちの三人が並んで座ることになるらしい。そのうちの一人がキングコングサイズではさぞ窮屈だろう、と佳奈は少し心配になった。


「藍原さんは、うちの部長のすぐ後ろに座ってくれ」

「お茶出しはどうしたらいいですか?」

「今回は総括班の男共にやらせる。もともと総括班の仕事だったのを、たまたま今は男所帯だからって、藍原さんに頼んでいる状態なんだから」


「俺、どーもムサい男が淹れた茶って嫌なんだ。自分でやったほうがナンボかマシ」


 やや前近代的なことを口にした秋山は、「悪いな」と言って、大きな肩をすくめた。


「とにかく今回は、藍原君は自分の仕事に専念してくれ。茶の件は後で話し合おう」


 キングコングが大きな笑い声を上げた時、にわかに部屋の外が騒がしくなった。追立が顔をしかめて部長室のドアを開けた。


「どうした」

「先任、問題発生! うちの課長が、韓国との会合に自分と内局の人間を混ぜろ、って言い出して」


 部長室の出入り口を塞ぐようにのっそりと立つ月野輪の向こうで、渉外班長と背広の男が何か言い合っている。

 背広のほうは、渉外班が属する情報企画課の課長だった。内局から出向しているキャリア官僚だが、個室にこもっているか不在のことが多く、制服の面々と話している姿はほとんど見られない。


「またか。あいつも懲りねーなあ。この話は制服主導でいいって、前に副本部長がはっきり結論出したじゃねーか」


 計画部長の秋山は、手にしていた書類を机に叩きつけると、月野輪を手で押しやり、部屋を出て行った。


「二人追加になるのか? 座るトコ足りなくなるな。早めに言ってくれれば会議室を用意するのに……」


 ブツブツ言いながら応接スペースを見やった先任は、部屋の隅に立てかけてあった折り畳み椅子を広げ、下座に近い窓際に置いた。


「私は……どうしたらいいですか?」

「藍原さんは予定通りのことをやってくれ。部長のロッカーのトコにもう一つパイプ椅子がないか? 机の横の、と衝立の後ろ」


 佳奈が、執務机の傍に置かれた大きな観葉植物と低い衝立の裏側に回ると、扉が開きっぱなしのロッカーがあった。部屋の主が、朝夕に着替えをするスペースに使っているらしい。

 確かにパイプ椅子もひとつ広げて置いてあったが、私服の半袖シャツが脱ぎっぱなしの状態で掛けてあり、座面にもタバコや財布といった小物が無造作に置いてある。どうやら、昼休みに敷地の外で会食した秋山が、戻って制服に着替えた時に、細かいものを放ったまま忘れているらしい。


「その椅子出して、入り口近くにでも座っといて。俺はそろそろ下に降りて『客』の出迎えをしないと……」


 先任が部長室を出ると、入れ替わりに日本側の出席者たちが姿を見せた。計画部長の秋山に続き、クジラのように太った1等海佐が、部下二人を連れて入ってくる。見慣れぬ彼らが、追立の言っていた「統合情報部」の面々だろう、と佳奈は思った。

 

 席に着いた制服一同は、そろって背広の情報企画課長に対する文句を口にしていた。

 やや荒々しい会話を聞きながら、佳奈は、パイプ椅子の上に溢れた上司の私物をロッカーに移した。他人の物を無断で動かすのは気が引けるが、怒り心頭でキャリア官僚の悪口をがなり立てるキングコングに声をかける勇気はない。


 しばらく間を置いて、問題の情報企画課長が入ってくると、計画部長室は完全に気まずい沈黙に満ちた。三十代前半の中肉中背の背広は、「急に入ることになって、すみませんね」と、白々しく挨拶し、出入り口に近い側のテーブル端の傍に置かれたストールに座った。


 パイプ椅子の上を片付け終わった佳奈は、衝立と観葉植物の葉の隙間から応接スペースの様子を窺った。先任は、入り口近くに座るように、というようなことを言っていたが、問題の背広の近くは何となく嫌だ。やや部屋奥の壁際にでもいさせてもらおうか……。


 静かに椅子を折りたたんで手に持った時だった。パタパタと軽い足音がして、黒い人影が入ってきた。


「失礼します」


「松岡君? 久しぶりだね。何で君が?」


 応答したのは、計画部長の秋山ではなく、キャリアの情報企画課長だった。


「木戸部員は急きょ大臣のところへ入ることになったので、代わりに私がこちらへ伺うことになりました」

「それって、調査課長からの指示?」

「そうです」


 テキパキと答える尖った声には聞き覚えがある。佳奈はパイプ椅子を握りしめた。黒いスーツの女は間違いなく、高卒枠で入省した佳奈を罵った前任者、松岡早紀だった。


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