ちっちゃい護衛要員(5)
佳奈は、手にしていた取り皿を放り出すようにテーブルに置くと、ゲストの合間を縫って計画部長のところへ向かった。
「アキヤマ1佐。直にお会いするのはお久しぶりですね」
ロシアの国防武官が、佳奈の上司に手を差し出す。ゲルマン系とスラブ系が交じったような顔が喋る日本語は、信じがたいほどに流暢だった。イントネーションもほぼ完ぺきだ。
握手を交わす二人の傍まで来て、佳奈は立ち尽くした。どうやって彼らの間に入ればいいのだろう。
社会人一年生が外国軍の高官にいきなり話しかけて、失礼にならないのか……。
「おー、何と可愛らしい」
灰色がかった深緑色の制服を着た陸軍少将が、にわかに相好を崩した。青い目が、キングコングの後ろから顔を覗かせた佳奈を見つめている。
「アキヤマ1佐のお嬢様ですか?」
「いや、うちの職員です。今年入ったばかりなんですが、私の通訳担当でして」
「そーなんですかー」
秋山の見え透いた嘘に、ロシア武官はニコニコと相槌を返した。経歴書類に添付されていた写真に比べ、実物はかなり温厚そうだ。
「ワタクシは、セルゲイ・エリストラートフと申します。ロシア大使館に勤めております。どうぞ、よろしくお願いいたしますネ」
「あ、あの、藍原佳奈です」
「カナさん……。どんな字を書くのですか?」
「えっと、『か』は、にんべんに土を二つ……」
そう言いかけて、日本語を母語としない相手にこの説明は無理だろう、と佳奈は思った。しかし、その心配は無用だった。
「ああ、佳人の『佳』ですね」
「カジン?」
「美しい女性という意味です。大変ぴったりですネー」
日本語の上手いロシア武官は、佳奈より漢字の知識があるらしい。
「こんな可憐なお嬢さんが防衛省にお勤めとは、意外ですネ。どういうきっかけがあったのですか?」
「飛行機が好きだったので、飛行機がいる基地で働いてみたいと思って」
「おー、飛行機。どんな飛行機がお好きですか?」
「一番好きなのは、ブルーインパルスといって……」
「おー。ブルーインパルス。『青い衝撃』ですネ。航空自衛隊が誇るアクロバットチーム。世界中で有名ですネー」
大好きなブルーインパルスの名が大国ロシアに知られていたとは、ファン冥利につきる。佳奈がキラキラと笑顔をこぼすと、エリストラートフも青い目を嬉しそうに細めた。
「駐在武官は、観閲式にご招待いただいた時ぐらいしか、ブルーインパルスを見る機会がないのですよ。普通のエアショーでは四十分も飛んでいると聞きますが、観閲式のフライトは短いので、あの美しいアクロバットを満喫できないのがとても残念で……」
自衛隊では年に一度、陸海空持ち回りで、最高指揮官である総理大臣を観閲官とする「観閲式」を行っている。諸外国の軍事パレードと同じような意味合いの記念行事であり、式典には、政財界の関係者と共に、各国の駐日大使をはじめとする外交官の要人たちも、数多く招待される。
ただし、終日開催される航空祭と違い、観閲式は一時間半ほどしかないため、ブルーインパルスの出番も十五分程度に限られている。
「普通の航空祭は出入り自由ですよ。外国の人もたくさん見かけます」
「入場チケットはないのですか? 身分証はいらないですか?」
「何も持って行かなくて大丈夫です。手荷物検査だけして入れます」
「おー。それはいいですネー。自衛隊は在日米軍よりずっと気前がいいんですネー」
青い目を見開き興味津々で見つめてくるロシア武官に、佳奈は、春先から年末まで全国各地の基地で行われる航空祭のことを話した。
会場では、自衛隊だけじゃなくて、在日米軍の飛行機も展示されるんですよ。
ブルーインパルスのフライトは大抵午後で、お天気が良ければ四十分間ほどたっぷり見られます。でも、基地の中がとにかく混雑して、ちょっと大変です。
東京からなら、埼玉県の入間基地が一番近くて、アクセスも楽ですよ……。
そんなとりとめのない話を、陸軍少将は楽しそうに聞いた。
「ところでアイハラさん。『スー・ドゥヴァッツァチ・スウェーミ』という飛行機をご存知ですか?」
「ロシアの飛行機ですか?」
「ああ、日本では『スホーイ・ニジュウナナ』と呼ばれているんでしょうかネー」
「
「おー、ホントに飛行機お好きなんですネー」
佳奈は恥ずかしそうに頷いた。エリストラートフは、何か思いついたように青い目をくるりと動かすと、少し屈んで佳奈のほうに顔を寄せた。そして、「私の部下は、日本に来る前はSu-27のパイロットだったんですよ。紹介してあげましょうネー」と言って、若い武官の一団にロシア語で何か呼びかけた。
航空自衛隊のものよりやや明るい紺色の制服を着た一人が素早く振り向き、キビキビとした足取りで近づいてきた。
「彼は空軍武官補佐官のアレクセイ・オルロフ少佐です。残念ながら、彼はまだ英語も日本語もできないので、私がお話のお手伝いをいたしましょうネー」
エリストラートフは、しばし部下と母国語でやり取りをした後、いたずらっぽい笑みを浮かべて、佳奈のほうに視線を戻した。
「彼はこう言ってます。『お目にかかれて光栄です。日本の女性が、自分の乗る飛行機のことを知っていてくださったとは、大変嬉しいです。私が妻帯でなければ、この場であなたを空のデートにお誘い申し上げるところです』」
佳奈は、ぱっと頬を染め、姿勢よく佇む空軍少佐を見上げた。細身の九頭身に、エキゾチックなほどシャープな顔立ち。エリストラートフより色の薄いブロンドの下で、グレーの瞳が優しげに見つめ返してくる。
同じ戦闘機乗りでも、後頭部の髪の毛を逆立てた言葉遣いの悪い荒神とは、まるで雰囲気が違う。階級から考えても三十歳よりは上の年齢だと思われるが、まるでお耽美な青年の雰囲気だ。
「ご質問があったら、何でも聞いてくださいネー。でも、秘密のことは、あんまり聞いちゃだめですヨー」
大きな星の光る階級章を付けた陸軍少将が、うっとりと目を輝かせる佳奈の言葉を、ひとつひとつロシア語に訳していく。
どうしてパイロットになろうと思ったんですか?
飛んでいる時に、オーロラを見たことはありますか?
ロシアにも、アクロバットチームはあるんですか?
見目麗しい空軍少佐は、佳奈の問いに丁寧に答え、それをまたひとつひとつ、エリストラートフが淀みない日本語に置き換えていく。
高い所から広大な我が国を東から西まで見渡してみたい、と思ったのが、パイロットを志したきっかけです。
フライト中にオーロラに遭遇したことはありますよ。明るい緑色のものがぼうっと浮いているのに気付いて、UFOに捕まったかと思ってしまいました。
我が軍には、「ルースキェ・ヴィーチャズィ」というアクロバットチームがあります。「ロシアの騎士」という意味です。Su-27をさらに発展させた機体を使っているんですよ……。
日露二か国語での飛行機談義がしばし続いた後、青い目のロシア陸軍少将は、はたと気付いたように周囲を見回した。
「大変です。あなたのボス、どこかへ行ってしまいましたネー」
佳奈は我に返って周囲を見回した。確かに、小山のように大きなキングコングの姿がない。自分の上司の存在をすっかり忘れていたとは、大変な失態だ。
「おー。これは長々とお引止めして、申し訳ないことをしてしまいました。あなたが怒られてしまったら、大変です」
「い、いえっ。すみません、こちらこそ……」
慌てて頭を下げる佳奈を、エリストラートフは愛おしそうに見つめた。そして、制服の内ポケットから名刺入れを取り出した。
「何かワタクシでお役に立つことがありましたら、いつでもご連絡くださいネ。可憐な日本のお嬢さんのためなら、何だっていたしますよ。またぜひぜひ、お話したいですネー」
想像していたよりはるかに気の優しいロシア武官は、佳奈に手を振ると、美形の空軍少佐を連れてゆっくりと去っていった。
佳奈は、冷や汗をかいて会場内を歩き回った。あの巨漢なら人込みの中でもかなり目立つはずだが、どこにもいない。小さな「護衛」を置いて、官用車でさっさと帰ってしまったのか……。
ワイングラスを片手に談笑するゲストたちの中をさまよっていると、「こっちだ」という野太い声が聞こえてきた。
大柄な西欧勢の一団の中に、首をすぼめて肉をパクつくキングコングがいた。
「藍原君、グッジョブ! さあ、奴がいないうちに食え。ここのメシ、マジで旨いぞお!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます