ちっちゃい護衛要員(4)

 車の多い幹線道路を二十分ほど走った官用車は、やがて住宅街に入り込み、ほどなくしてイタリア大使館に到着した。

 洋館の屋敷を思わせる立派な門から敷地内に入る。こんもりと木々が生い茂る静寂な空間を通過すると、にわかに近代的な白い建物が現れた。


 大きな車寄せで上司とともに車を降りた佳奈は、職場を出る時とは違う緊張感を覚えた。在京大使館も、レセプション行事も、黒塗りの車も、すべてが初めてだ。まるで、カボチャの馬車に乗ったシンデレラのような心境になる。


 入口にいた大使館員に案内されて大きなホールに入ると、中はすでに、ウェルカムドリンクを手にしたゲストたちでにぎわっていた。

 本国から派遣されている駐在武官の軍服姿が目に付く。見慣れた自衛隊の制服もちらほらいた。肩に大きな桜星をつけている面々は、普段まず見かけることのない将官たちだ。夫妻単位の行事だけあって、着物や華やかなスーツに身を包む中年の女性陣も多い。

 一方、年配の招待客に混じって、二十代後半と思しきビジネススーツの男女もそれなりにいた。VIPの随行者のようだが、彼らが本物の通訳者なのか、佳奈と同じような『カバー』で会場に入っている偽物なのか、判別はつかない。


 やがて、『イタリア共和国建国記念レセプション』と銘打った祝賀行事が始まった。イタリア大使が美しい日本語でスピーチをする。それに続き、日本の政財界の関係者が次々に祝辞を述べていく。美しく煌めくシャンパンが贅沢にふるまわれ、会場が華やかな祝杯に満ちる。


 出席者たちが歓談を始めると、秋山は、「取りあえず、何があるか見に行こうぜ」と言って、ガキ大将のようにニヤリと笑みを浮かべた。シャンパングラス片手に談笑するゲストたちをかき分ける巨漢の後を、佳奈はちょこちょことついて行った。


 部屋中央にロの字型に配置されたテーブルの上には、見た目も美しいフィンガーフードからボリュームのある肉料理までが、ずらりと並んでいた。渉外班長の予告通り、パスタ料理も充実している。

 それらを、いかにも食欲旺盛な風体の秋山が、遠慮なく取り皿に盛って行く。


 佳奈もそれに倣おうとテーブルの端に置かれた取り皿に手を伸ばした時、「Colonelカーネル AKIYAMA(秋山大佐)!」と呼びかける声が聞こえた。秋山と佳奈が振り向くと、上下真っ白の海軍の制服を着た男が立っていた。長袖詰襟のお耽美なデザインのジャケットは、海軍の夏の「ミリタリー・インフォーマル」だ。


 英語圏の出身らしいその駐在武官は、佳奈にわずかに笑いかけると、秋山に向かってかなりの早口で喋り出した。

 佳奈は困惑した顔で巨漢の上司を見上げた。偽物の通訳者に通訳の技量はない。


 先方が言葉を切り、一瞬だけ間が空く。その直後、スキンヘッドのキングコングは、見た目からは全く想像もつかない綺麗な英語を喋りだした。そして、楽しげな会話の合間に、佳奈に向かってテーブルを指さすジェスチャーをした。「ここはいいから飯でも食ってろ」という意味なのか、それとも、「聞かれたくない話だから離れていろ」ということなのか。

 どちらにしても、二人の制服がネイティブ並みのスピードで話している内容を理解するのは不可能だが……。


 佳奈は、手持ち無沙汰で、テーブルの傍をゆっくり歩いた。ふと、艶のあるグレーのパンツスーツを着た女が前菜類に手を伸ばしているのが目に入った。

 佳奈より六、七歳ほど年上のように見える彼女は、皿の上をてんこ盛りにすると、少し離れたところで軍服の一団と話している恰幅のいい陸上自衛官に、それを渡しに行った。そして、再びテーブルの傍に戻ってくると、またもや皿を取る。今度は当人が食べるらしい。


 顔見知りらしい人間と言葉を交わしながらテーブルの上を物色する女に、佳奈は恐る恐る声をかけた。


「あの、防衛省の方ですか?」

「そうです。あなたも?」


 佳奈より頭一つ分高い相手は、ハーフを思わせるような彫りの深い顔に、愛想よい笑みを浮かべた。佳奈は安堵に顔をほころばせた。


「防衛情報本部の藍原佳奈といいます」

「私は陸幕りくばくの……、あ、『エリちゃん』だ」


 己の名を名乗ろうとした相手は、急に佳奈の背後に視線を移した。


「エリちゃん……?」

「ロシアの国防武官のエリストラートフ少将。言いにくいから、うちの部署では、こっそり『エリちゃん』って呼んでるんですけど、なんだか要注意人物らしいですね」


 可愛らしい呼び名の正体にドキリとする。佳奈がゆっくり振り返ると、確かに、前日見た経歴書類に添付されていた写真と同じ人物の姿があった。金茶色のやや薄い頭髪。灰色がかった深緑色の制服。襟に施された金の刺繍が、いかにも共産圏という雰囲気を醸している。


 ロシア連邦軍参謀本部情報総局、略称GRUゲーエルウーと繋がっているらしいその男は、佳奈の上司である防衛情報本部計画部長のところへ、まさに歩み寄ろうとしていた。


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