ちっちゃい護衛要員(3)
翌日の夕方、紺色のスーツを着た佳奈は、計画部長室のほうをちらちらと見やりながら、自席に落ち着きなく座っていた。長袖の上着が妙に暑く感じる。
計画部長夫妻宛てに来ていたレセプションの招待状には、出席者の服装について、「ミリタリー・インフォーマルもしくはシビリアン・インフォーマル」という指定があった。
前者は軍人のドレスコードのひとつで、長袖のジャケットにネクタイというスタイルの制服姿を意味する。自衛隊では、冬服と「夏1種」と呼ばれる夏服がそれに該当している。
後者は、「ミリタリー・インフォーマル」に相当する民間人の服装のことで、男性なら背広ネクタイのビジネススタイルで事足りる。女性の場合はやや着飾る度合いに個人差が出るが、随行者の立場にある人間は一般的なビジネススーツを選んだほうが無難らしい。
渉外班長の下関からそのようなアドバイスを受けていた佳奈は、服装には迷わずに済んだ。しかし、頭の中は別の不安でいっぱいだった。前日、帰り道の電車の中で、ロシア武官と繋がりがあると聞いた
<ソ連時代から存在するロシア軍の諜報機関>
<第二次大戦中に日本で暗躍したスパイ「リヒャルト・ゾルゲ」もGRU要員>
<暗殺や破壊工作を担う特殊部隊「スペツナズ」を管轄下に置く組織>
所詮は興味本位に書かれた信憑性の薄い記事だろう、と思いたいが、確か先任の追立も奇妙なことを口走っていた。
『
班長に遮られた彼の言葉は、何を意味していたのだろう。
「お待たせえ! しかし、せっかく衣替えしたってのに、長袖ネクタイで来いってのはなあ」
フロア中に大声を響かせて個室から出てきた計画部長の秋山は、陸自の夏1種の制服を暑苦しそうに着こんでいた。スキンヘッドの頭にかなり汗がにじんでいる。
「今日は突然すまんねえ。よろしく頼むわあ」
佳奈は、飛び跳ねるように席を立つと、首をすぼめて会釈をした。間近に見たキングコングは、想像以上に大きい。深緑色の袖口から見える手の握力は、百キロ以上ありそうだ。
一方の秋山は、己の胸の下あたりまでしかない新人を物珍しそうに見ると、ふいに横を向き、「もう下に降りていいんかあ?」と叫んだ。部長室を挟んで渉外班とは反対の側にある総括班から、海自の尉官が転がるように走り出てきて、官用車がすでにA棟一階の車寄せに待機している旨を告げた。
「んじゃ、藍原君借りてくわ。彼女は直帰させるんだよな」
「そうです。よろしくお願いします」
心配そうに口を尖らせる下関に、秋山は「おう」と軽く手をあげて応えると、のしのしと歩き出した。佳奈は、班の一同に挨拶をするのも忘れて、小山のような1等陸佐の後を小走りで追った。
A棟一階に降り、儀仗広場がある側とは逆の出口に出ると、黒塗りの車が数台停まっていた。どれに乗ればいいのだろう、と佳奈が思った時、そのうちの一台がゆっくりと近づいてきた。二人の前で静かに停まった車の中から、曹の階級章を襟に付けた陸自の制服が出てきて、後部右側のドアを開けた。
佳奈は、初めて乗る官用車を前にして、当惑した。車の座席にも上座と下座があると聞いたことがある。自分はどこに座ればいいのだろう。
「どうぞ、お先に」
部長の秋山が、左側のドアを開け、迎らしく一礼する。佳奈が促されるまま車に乗ると、秋山は勢いよくドアを閉め、自身は陸曹が立つ右側から窮屈そうに乗り込んできた。
威厳ある黒塗りの車内は、予想外に狭かった。隣に巨漢のキングコングがいるせいもあるのだろうが、車体そのものが一般的なタクシーより小振りなように感じる。
滑らかに動き出した官用車は、敷地の縁をぐるりと回り、正門から外へ出た。いつも歩いて通る道が、なぜか全く違う景色に見える。
「今日はイタリアだから、旨いぞお。カミさんも来たがってた」
シートの背にどっかりとふんぞり返った秋山は、渉外班長と同じようなことを言って、一人でゲラゲラと笑った。
「奥様は、今日は……」
「家に置いてきた。アレは、ちょっと顔のいい武官に世辞でも言われたら、調子こいてベラベラ何でも喋っちまうから。恐ろしくてとても連れてこられん」
再び割れるような笑い声を上げた秋山は、隣でハリネズミのように縮こまっている佳奈を見て、急に声を低めた。
「下関からどういう説明を受けたか知らんが、怖がる必要はない。ただ、一つだけ気をつけてもらいたいことがある」
「何ですか?」
「問題のロシア武官は別としても、レセプションに顔を出す人間の大半は、接触する相手とオフレコで情報交換することを目的にしている。俺だってそうだ。だから、俺の近くにいて妙な話を聞いちまっても、決して職場の外で喋らないように。いいな」
「はい……」
佳奈はますます小さくなった。言われた内容も恐ろしいが、キングコングが凄んだような顔で語るボス自体が、とにかく恐ろしすぎる……。
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