経歴異端者の事情


 会議を終えた「客」を建物出口まで送り届けた佳奈が地下三階に戻ると、会議場はすでに綺麗に片付けられていた。来た時と同じように備品類を段ボール箱に無造作に突っ込んだ月野輪は、熊のような唸り声を出して伸びをし、「お疲れさん」と笑みを浮かべた。


 閉鎖的な空気に満ちた建物の外に出ると、初夏を思わせる日差しが佳奈の上に降り注いだ。都心の市ヶ谷には珍しく、突き抜けるような青空が広がっている。

 しかし佳奈は、下を向いたまま、月野輪の後ろをぼんやりと歩いた。頭の中は、黒いスーツの女のことでいっぱいだった。



『あなたみたいな人がいるから、うちの大学出の人間は程度が低いだのコネ採用だのって言われんのよ。こっちはいい迷惑なんだから!』



 佳奈の前任者となる松岡は、おそらく同じ大学の出身なのだろう。同窓の後輩が高卒者として社会に出たことが、そんなに不愉快だったのか……。




「俺、これ倉庫に片付けとくわ。藍原さんは先に班に戻ってて」


 月野輪は、段ボール箱を抱え直すと、A棟十三階に到着したエレベーターから降り、速足でセキュリティドアの向こうへ消えていった。一人残された佳奈は、誰もいないエレベーターホールで立ちすくんだ。

 急に涙が溢れた。好きで大学を辞めたわけではない。好きで指定校推薦を受けたわけではない。高三の夏から三年近くも心の奥底にひっそりと沈んでいた何かが、音もなく湧き上がってきた。

 スーツの袖で目元をぬぐっても、後から後から滴が零れ落ちてくる。



「職場で泣いてはいけません、って初任者研修で習わなかった?」


 鋭い女の声が背中に刺さった。別のエレベーターに乗ってきたらしい2等海佐の山本美知留みちるが、仁王立ちで佳奈を見下ろしていた。


「わざわざ習うわけないか。そういうことは、基本中の基本だからね」


 山本は、つかつかと佳奈に歩み寄ると、「いらっしゃい」と有無を言わせぬ口調で囁いた。黒い制服の後を、佳奈はとぼとぼとついて行った。


 建物の端まできた山本は、女子更衣室のドアを開けると、佳奈をその中に押しやった。自動ロックが狭い部屋に耳障りな音を響かせた。


「先に言っとくけど、勤務中に人前で泣いたら、仕事もらえなくなるよ」


 無言で頷く佳奈の目から、また涙がこぼれる。山本は、近くにあったパイプ椅子を掴むと、それを部屋の中ほどに置かれたテーブルの脇に広げた。そして、佳奈をそこに座らせ、自らは再び仁王立ちになった。


「どうしたの?」


 尋ねる口調は、相変わらず威圧的だ。佳奈は、取調室にいるような心境で、C棟地下三階での出来事を話した。



「……つまり、大学を辞めて高卒採用で入省したあなたは迷惑な存在だ、というようなことを、その前任者に言われたわけね」


 山本はわずかに眉を吊り上げた。


「確かに、大学生が高卒採用の枠を奪う形で官公庁に就職する話は、聞いたことあるわね。四大生として就職活動を勝ち抜く自信がないから高校生のテリトリーに割り込むなんて、そういうセコい奴は、私も大っ嫌い」


 佳奈はびくっと震えた。そんな卑怯な思惑で退学を決めたんじゃない、と反論したいのに、頭の中で爆発しそうになる思いを言葉にすることができない。


「でも、そういう魂胆で来る連中って、見てすぐに分かるものよ。面接でちょっと圧力かけると、あっという間にボロ出して逃げ腰になるから。その点あなたは、気弱そうに見えて、ちゃんと筋が通ってた。終始一貫して飛行機好きの変わった子だったもんね」


 山本は、うつむいて黙り込む佳奈の様子をうかがいつつ、言葉を続けた。


「高校三年生の時、お母様がご病気になったんですってね。当時、お父様は九州に単身赴任中で、あなたが一人で入院したお母様に付きっ切りになってた。だから、無試験で進路先を確保できる指定校推薦を受けたんでしょう?」

「……」

「その後、お父様は、子会社への転籍を条件に、任期途中で東京にお戻りになった。でも、藍原さんが大学に入って間もなく、その転籍先が解散してしまって、今は、嘱託扱いで本社勤め……」

「どうしてそんなこと知ってるんですか」


 佳奈は青ざめた顔を上げた。


「私の家族のことを、いろいろ調べ回ったんですか」

「そんなあからさまなこと、するわけないでしょ」


 すまし顔で答える山本から、佳奈は椅子ごと遠ざかった。驚いて涙も止まってしまった。


「勘違いしないで。地元警察に照会しただけ。藍原さんの場合は、早くから防衛情報本部うちへの配置が決まってたから、他の新規採用者よりは念入りに身辺調査させてもらったけどね」


 山本はクスリと笑った。何か言いたそうに涙顔を歪めた佳奈を見つめる眼差しは、友達と喧嘩して帰ってきた子供の話を聞く母親のような温かさに満ちていた。


「こう言っては失礼だけど、ご家庭は経済的にかなり厳しい状態なんでしょう? 嘱託社員になると収入は激減するというし、収入状況が変わると、銀行から住宅ローンの残金を一括返済するように迫られることもあるって聞くから」

「そうなんですか?」


 ローンのことまでは、佳奈自身も承知していなかった。父親からは何も聞いていない。

 しかし、「関連業界にいる知人の話」として山本が語ったところによると、金融機関は、融資相手の経済環境が悪化したことを知ると、ローン金利を一方的に引き上げ、場合によっては、残金の一括返済を求めて借主に住宅の売却を勧めるケースすらある、ということだった。


「今後もお母様の医療費がかかることを考えると、なおさら……ね。あなた自身も、そういうことを深く考えた上で、今の道を決めたんでしょう?」

「……はい」

「だったら、誰が何を言っても、自分の選んだ道が最良の選択なんだって、胸を張っとけばいいのよ」

「でも……」


 男社会で生きてきた2等海佐の彼女のように強くなれる自信はない。口ごもる佳奈に、山本は眉根を上げた。


「いつまでもウジウジしない! そんな時間があったら、自分の目標や希望を叶えることを考えなさいよ。就職しようと決意した時のことを思い出して。藍原さんは、どんな希望を抱いて、防衛省うちに入ろうと思ったの?」

「飛行機の見える職場で働きたいと……」

「あー……。そ、そうだったね……」


 新人に喝を入れるはずだった女性自衛官は、途端に静かになってしまった。



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