ちっちゃい護衛要員(1)
六月初日、出勤した佳奈は事務所内をキョロキョロと見回した。何となく部屋の中が明るくなったような気がする。
数秒して、その理由が分かった。制服たちが夏服に衣替えしている。
陸自と空自はそれぞれ深緑と濃紺の上半分がクリーム色と水色の半袖シャツに変わっただけだが、海上自衛隊の一同は黒のダブルスーツから白一色になっている。職場の雰囲気をガラリと変えた彼らは、いかにも涼しげに見えた。
同じ日の午後、計画部長室から出てきた渉外班長は、足早に佳奈の席に歩み寄った。白い制服姿の彼は、険しい表情で唇を引き結んでいた。
「おはよう藍原君。明日の君の任務だが」
「もう昼過ぎですよ、班長」
先任の追立が、訓練に飽きたシェパードのような顔でツッコミを入れる。しかし、下関はそれを無視して、立ちあがる佳奈をじっと見据えた。
「今回は、夜の仕事だ」
「夜?」
「うちの部長のご指名だ。明日の夜は部長と一緒にいてやってもらいたい」
「えっ……」
凍りついた佳奈の左横で、古池も一緒に「クェッ」とカエルのような声を出した。途端に、残りの班員たちが一斉に騒ぎ出した。
「何なんですかそれ!」
「そういうの、班長のトコで止めるべきでしょう!」
「部長も班長も、冗談抜きで懲戒免職モノですよ!」
「何で?」
下関は、いつものフグ顔に戻り、丸い目を不思議そうにしばたたかせた。
「部長がさ、明日のイタリア大使館のレセプションに藍原さんを連れて行きたい、って言い出したんだよ。急な話で悪いのは分かってるけど、そこまでマズイ?」
腰を浮かしていた一同が、脱力したように椅子に座り直す。彼らの苛立たしげなため息を聞いた下関は、ようやく状況を理解したのか、憮然と口を尖らせた。
「君たちさあ、何ヘンな発想してんの?」
「ヘンなのは班長の日本語のほうですよ。レセプションの話から始めればいいじゃないですか」
再び部下から集中砲火を浴びた下関は、膨れた顔で咳払いした。
「レセプションの件、出欠確認と大使館への連絡は、藍原さんがやってくれたんだよね?」
「はい。月野輪1尉に教えていただいて……」
「で、最終的に
「そうです」
「本部長は当日不在。部長クラスは、うちの部長以外、全員逃げました」
記録ファイルをめくる佳奈の手元を覗き込んでいた月野輪が、言葉を継いだ。
「ま、そうなるよねえ。我が国周辺がピリピリしてるこのご時世じゃ……」
佳奈は、自分の脇でぼやく上司を不安げに見上げた。確かにこの半月ほど、アジア情勢が以前よりかなり緊迫化しているという報道を、頻繁に目にしている。
これまで、新人の仕事には全く影響しない国際問題など、ヒトゴトのように聞き流してきたが、1等海佐の階級を付けた人間に不穏な言葉を口にされると、にわかに不安になった。
「大使館の行事に出ている場合じゃないってことなんですか?」
「まだ全然そんなレベルじゃないんだけどね。ちょっと揉め事のネタがあると、ああいう酒の席はやりにくいんだよ。特に立食形式のレセプションだと、無秩序に誰とでも適当に喋る、ってスタイルになるから、揉めてる国の連中とも顔を合わせなきゃなんないし」
「交流の行事の場では、お互い喧嘩になりそうな話題は避けるものじゃないんですか?」
「そうでもないな」
精悍なシェパード顔が、佳奈の疑問に答えた。
「大使館員は、駐在国との親交を深めるためだけに働いてるわけじゃない。駐在先の現地情報を集めるのも重要な仕事だ。だから、官民の関係者が多く集まるレセプションでは、彼らは、世間話をするフリをして、相手から何かネタを引き出そうとする」
「何だか、怖いですね……」
「中には、政府関係者の失言を狙って、わざと微妙な話題を振ってくる輩までいる。特にえげつないのが、こいつ」
先任は、古池を経由して、佳奈に一枚の書類を見せた。経歴が記されたその紙には、やや灰色がかった深緑色の制服を着た軍人の写真が添付されていた。五十歳前後の年齢にふさわしく金茶色の頭髪はかなり薄いが、明るい青色の瞳がそう見せるのか、眼光鋭く隙のない顔をしている。
「ロシアの国防武官、セルゲイ・エリストラートフ。陸軍の所属で階級は少将。愛想のいいオッサン
国防武官とは、本国から在外大使館に派遣される軍人すなわち駐在武官の筆頭である。駐在武官は、外交官としての身分を持ち、本国軍の代表者として駐在先の軍隊との連絡業務に携わる一方、軍事情報をメインとする情報収集をする役割をも担っている。
本国の経済力や相手国との関係によって派遣人数は様々だが、対日関係を重視する主要国の多くは、国防武官の下に複数の駐在武官や武官補佐官を配し、事務スタッフまでそろえた「国防武官室」を在京大使館内に設置している。自衛隊も同様に、「防衛駐在官」という名称で、主要国の日本大使館に六十名以上の自衛官を派遣している。
「各幕のおエラ方も、このロシア武官には警戒してる。巷で防衛問題が話題になってる時は、特に」
「その人は、どんなことを聞きたがるんですか」
「そこが分からないから問題なんだ。奴はくだらない話題にもせっせと首を突っ込んでくる。おそらく、自国には重要でない情報を仕入れては第三国に売り、売った先から自分たちに有益な情報を対価としてもらう、って腹積もりなんだろう。情報関係者は、敵同士でも味方同士でも、情報の『ギブ・アンド・テイク』をやるからな」
追立は、周囲を警戒するシェパードのように、鼻から息を漏らした。ごくりと唾をのむ佳奈を、班長の下関がじっと見据えた。
「というわけで、藍原君。明日のレセプションの時間中、計画部長の秋山1佐を護衛してもらいたい」
「護衛? 私が? 部長をですか?」
佳奈はぽかんと口を開けた。入省以来まだ数回しか言葉を交わしたことのない計画部長は、一目見れば決して忘れられないスキンヘッドの強面だ。月野輪よりさらに縦横に大きく、頭の禿げたキングコングといった風情をしている。身長148.5㎝の佳奈に、どうやってキングコングを護衛しろというのか……。
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