地下室での国際会議(4)
「私が案内しますね」
ふいに、「美人スパイ」の後ろから声がした。会議前に自衛官たちとブリーフィングの事前チェックをしていたお嬢様風の女性事務官が、顔をのぞかせていた。
「お手洗いは、給湯室の近くの所のを使っていいんですよね?」
「そ、そうです。でも、その人……」
得体の知れないスパイかもしれない、というようなことを口走りそうになって、佳奈はぎゅっと唇を噛んだ。
ダークブロンドの「美人スパイ」がじっと見つめてくる。こちらの疑念を察したのだろうか。何か適当な挨拶でもしてごまかしたいが、それらしい英語のフレーズなど何も思い浮かばない。
「こちらへどうぞ」
佳奈が泣きそうな顔で固まっているうちに、お嬢様風の物腰柔らかな女性事務官は、「美人スパイ」と親しげに言葉を交わしながら、部屋を出て行ってしまった。
二人の日本語の会話を聞きながら、佳奈は、流暢な日本語を話す米国人相手に片言の英語で必死に応答しようとした己の間抜けさに思い至り、一人、赤面した。
上層部のみが参加する後段の会議が始まると、休憩部屋は再び佳奈一人だけになった。廊下から、男二人の話し声がする。月野輪と横田LOの陸上自衛官が、立ち話をしているらしい。
彼らの声をぼんやりと聞きながら、佳奈は大きく息をついた。後は、会議終了後にメインの「客」を一階に送り、会議場と休憩部屋の片付けをするだけだ。
「お疲れさま」
佳奈が声のしたほうを見ると、戸口に、先ほど「美人スパイ」に対応してくれた女性事務官がいた。
「松岡さんの後任の人ですよね? もしかして、入省したばかり?」
「はい。あの、さっきはありがとうございました。あのアメリカ人の女の人は……」
「彼女はあの後すぐ会議室に戻ったから、大丈夫。初めてああいう人たちと接すると、緊張するよね。私も昔はそうだったもん」
そよ風のような微笑みを浮かべる相手は、年上ながら、やはり「名家のお嬢様」という形容が似つかわしい。
「分析7課の
佳奈が慌てて自分の名を告げて頭を下げると、清楚な気品に溢れた先輩は、「頑張ってね」と言って、エレベーターホールのあるほうへと去っていった。その落ち着いた後ろ姿を、佳奈は憧憬の眼差しで見送った。
お茶出しに使った備品類を片付け終わる頃、再び部屋の戸口に立つ者がいた。
「渉外班の藍原さんですか?」
女性の声ながら、先ほどの米内とはまるで違う、固い口調だ。佳奈が振り向くと、リクルートスーツのような黒い上下を着た事務官がいた。
「防衛政策局調査課の松岡です。この年度末まで
防衛政策局は、内部部局の一つで、局の名称が示すとおり、まさに日本の防衛政策を担う中枢組織である。残業は月百三十時間どころではないかもしれない。
そんなことを思いながら、佳奈は、ニコリともしない相手の顔をまじまじと見た。
「藍原さんが私の後任になるんですよね?」
「はい。でもあの、後任というか、私は仮配置なんです。一般職採用なので」
「えっ、そうなんだ。さっき月野輪1尉が、後任者も東聖学園女子大の英文科だって言ってたから……」
首をかしげる松岡に、佳奈はうつむいて答えた。
「卒業は、していないんです。二年で退学して……」
「じゃあ、大学辞めて、高卒枠で入省したの?」
松岡の顔に険のある表情が浮かぶ。しかし、下を向いたままの佳奈の目に、その微妙な変化は捉えられなかった。
「何でまた……。せっかく大学に入ったのに」
「せっかく、ってほどでもないんです。指定校推薦で入ったので試験勉強もあまりしなかったですし、入った後は特に目標も将来も見えなくて。それに……」
佳奈はそこで口をつぐんだ。職場の関係者に家の事情はあまり話したくない。話題を変える言葉を探そうとしたとき、松岡の口から予想外の言葉が飛び出した。
「藍原さんの高校、進学校だったんだね」
淡々としていた話し方が、いつのまにか怒気を含んだそれに変わっている。
「いいよね、推薦枠のある高校は。それで、無試験で入れる大学選んで、のんきに過ごして、急に大学の知名度が低いのに気付いて将来が心配になったってわけ? 二年次ならまだ高校生相手に勝負できるから、敢えて退学して高卒枠に割り込んできたんだ?」
「そういうわけじゃ……」
相手の豹変ぶりに佳奈が驚いて顔を上げると、侮蔑と憎しみの色に満ちた目が、ギラリと睨み返してきた。
「ひたすら
一方的に喋った前任者は、目を大きく見開いた佳奈に背を向け、大きな靴音を立てて去っていった。
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